CREDO入門

使徒信条入門』-信仰入門講座担当者の話し合いノート

前書き

使途信条の順にしたがってキリスト教の教えに関する話し合いノートをまとめます。簡単な「箇条書きだけですが、話し合いに参加した方々の復習のために記録しておきます。

聖書と生活に基づく基本方針

生活経験に照らして福音書を読むこと。

イエスの福音に照らして生活の経験を見直すこと。

これは教えの手引きの基本である。

イエスの伝えた福音

イエスの教えにもとづくキリスト教は、時代と共に発展するにつれて難しいものがつけ加えられてきた。そして、理屈も儀式も規律も、いつのまにか、増えてしまい、創立のころの簡単な信仰の持ち方が複雑になったことがある。これは多くの宗教に見られる現象である。

そこで、余計なものを取り払い、初心に立ち帰る必要がある。

イエスの弟子ヨハネの言葉を参考にしよう。(新約聖書、ヨハネの第一の手紙、1,1-5を参照)。

このヨハネの手紙の冒頭にキリスト教の要約が見事に簡潔な形で表されている。

私たちもこの研究会では「イエスとともに」歩みながら「真実のいのちへの道」を求め、それを「イエスの福音を学ぶ」ことによって求めたいのである。

では、この二つの言葉について簡単な説明しておこう。

福音とはイエスが伝えた信仰を指す言葉である。それは福音書に書き記されている。

聖書の中で、四つの福音書すなわちマタイ文書、マルコ文書、ルカ文書、ヨハネ文書があるが、それは最初のキリスト者たちの間に口頭で伝えられていたイエスの生涯と教えに関する伝承を、福音記者が信仰者の共同体を代弁して書き記したものである。

「イエスの福音」とはイエスが伝えた「良い知らせ」という意味である。それはどんな「良い知らせ」だったかというと、一言で言えば、「いのちの源である方から人間は子供として愛されているので、人間には希望と生き甲斐が与えられており、兄弟姉妹の世界を作っていくように励まされている」ということである。

福音という言葉の意味

福音という言葉の意味についてもう一つの説明をつけ加えておこう。

「イエスの福音」とは三つの意味で受けとめられる。 イ)イエスが伝えた福音。つまり、イエスが伝えた信仰の教え。 ロ)イエスについての福音。つまり、イエスの生涯と教えを書き記した福音書。 ハ)イエス自身のこと。イエス自身が福音すなわち「朗報」であること、イエス自身が人間にとって「良い知らせ」であり、「希望と生き甲斐をもたらす者である」ということである。

真実のいのちについて

つづいて続いて「真実のいのち」についてヨハネの手紙を読もう。

次のように書いてある。

「はじめからあったもの、私たちが聞いたもの、私たちの手で触ったもの、私たちの目で見たもの、すなわち、いのちのことばについて・・・そのいのちが現れた。そして、父なる神のもとにあったが私たちに現れたその永遠のいのちを私たちは見て、あなたがたに示し、告げるものである・・・私たちが見たもの、聞いたものをあなたがたにも告げ知らせる。それはあなたがたも私たちとのつながりに与るようになるためである。私たちのつながりとは父とその子イエス・キリストとのつながりである。そして私たちがこれらのことを書くのは、私たちの喜びが満ち溢れるようになるためである。私たちは彼から聞いており、あなたがたに告げ知らせるのは、神は光であって、彼の中にはいかなる闇もないということである・・・(1ヨハネ1,1-4)」。

ここに載せた数行はイエスが教えた信仰の真髄を明らかにしてくれるものである。次の要点を覚えておこう。イ)この手紙はイエスに接した人の思い出から語られている。 ロ)教えの中心は真のいのちで、永遠のいのちである。「いのちの源」のことは「父」と呼ばれる「父なる神」である。」 ハ)その奥義はイエスにおいて現れた。イエスはその表現であり、「いのちのことば」と呼ばれている。イエスは永遠のいのちを語っただけではなく、イエス自身がいのちそのものの現れである。だから「御子」と呼ばれている。ニ」この手紙の差出人は複数の形で(私たち)話している。宛先人も複数である(あなたがた)。 ホ)つながり(交わりとも訳されるが、ギリシャ語でコイノニア)という語彙も大事である。永遠のいのちの源なる「天の父から」、永遠のいのちの現れであるイエスを通して、私たちに永遠のいのちが与えられ、私たち皆一つに結ばれている。それは同じ手紙の別なところで「神からの息吹」とか「分け与えてくださる霊」とも呼ばれている(同上3,24)。ヘ)キリスト教のこの信仰を短く表すのは十字架のしるしを示しながらキリスト者たちの唱える「父と子と聖霊のみ名によって、アーメン」という祈りの言葉である。

ナザレのイエスはキリストと呼ばれる

仏教が昔から盛んだった文化圏の人は「お釈迦様」、「釈迦ムニ」、「ブッダ」、「釈尊」などのことばを聞くのに慣れているが、欧米人に説明するときシッダルタ・ゴータマという釈迦の部族のムニすなわち知者や聖者は悟りを開いてブッダとなったというところからはじめなければならない。

釈迦の部族で生まれたゴータマがブッダ即ち悟りを開いた者と呼ばれるように、ナザレ生まれのイエスはキリストと呼ばれていると言えば一応の早わかりの説明になる。

キリストとは、神から「遣わされた」者、「救い主」という意味である。

そして、イエスはキリストであるすなわち私たちに救い(希望)をもたらす方だと信じている人にとってのその名称は「主イエス・キリスト」である。言い換えれば、イエス(真の人)は主(真の神と同一のもの)であり、私たちに救い(希望、生き甲斐、ゆるし、永遠のいのちなど)をもたらすキリスト(神から遣わされた者)だということである。

キリスト教の出発点

先ほど述べた「イエスはキリストである」という信仰からキリスト教は始まった。イエスが「キリスト」すなわち「わたしたちに希望をもたらす方」であると信じている人々はイエスのことをイエス・キリストと呼ぶようになった。

「キリスト」とは先ほど言ったようにヘブライ語の「メシア」(油を注がれた者、選ばれた者、遣わされた者、救い主)のギリシア語訳である。

イエスは紀元前7~6年に生まれ、紀元30年に十字架上で死刑された。27年の頃、ガリラヤ地方を巡り歩いて「やっと神さまが支配するときが近づいた」、「いのちの王国が実現されるときが来た」ということを告げ知らせ、人々に希望を与えたり、病人などを癒したりした。

イエスが説いた「神の支配の実現」や「いのちの王国の実現」(言い換えれば「神様が望まれる世の中」、「真のしあわせに生きる兄弟姉妹の世の中」)という福音(good news, Gospel, 良い訪れ、良い告げ知らせ)は、前述したように、父なる神がいのちの源であり、一人ひとりの人間を造り、一人ひとりのいのちを大切にし、皆が兄弟姉妹として生きるように招き、真の幸せを人間に約束してくださるということである。

この教えは群衆に希望を与えたが、当時の既成宗教の指導者たちからイエスは危ぶまれたのである。イエスは捕らえられ、ユダヤ教の立法と裁判の議会である最高法院によって断罪され、当時パレスティナを支配していたローマ軍に引き渡されて、十字架刑によって処刑されるようになった。

しかし、イエスの十字架の死によって失望し離散した弟子たちが、イエスは復活し、今なお生きているという体験に基づいてイエスが引き起こした運動を続けるようになり、福音を告げ始めた。弟子たちの団体はエルサレムから出発して、ユダヤ教との衝突が生じたのであるが、そのうちにユダヤ教とは別な「新しい信仰者の共同体」を形成するようになった。そして、全世界に向けてイエスの福音を告げ知らせる運動を広めていった。

このようにキリスト教は始まったわけである。

聖書という「家族アルバム」

前述したように、イエスの生涯と教えは、最初は口伝で伝えられ、後に「福音書」に書かれたが、それはキリスト教を信じている者にとって聖書の中でもっとも大切な文書である。聖書について次のようにまとめることができる。

聖書はキリスト教の諸教会が教派の違いを越えて共通に規範としている教典で、もともとイスラエルの民族と、そこから生まれたキリストの教会が自分たちの信仰を伝えるために書き記した書物である。何百年もの長い歴史の中で多くの著者が、さまざまな形で書き記した多くの文書を、後の人々が収録したものである。

聖書には「旧約聖書」と「新約聖書」とがある。「旧約」と「新約」の「約」とは、神と民との間の「契約」という意味だが、旧約聖書はユダヤ教とキリスト教の共通の教典であり、原文はヘブライ語で、イスラエル民族の信仰の体験と理解が長い歴史の中で言い伝えられ、書き記され、編集されて現在の形にまとめられたものである。ユダヤ教にとっては古い契約(つまり、むかしから神からの約束)の書という名称は不本意で、むしろ「ヘブライ語聖書」と呼ぶべきものであろう。

これに対して「新約聖書」とは、イエス・キリストの弟子たちと、その指導を受けた初期の教会の人々が自分たちの信仰を書き表した文書を集めたもので、原文は当時の世界の共通語であったギリシャ語である。さまざまな文書が含まれているが、全体を通じて、イエスこそ旧約聖書の中に記されている「メシア」、「キリスト」であり、旧約の神と民との契約がその新しい契約によって真の完成を見たとして、「新約聖書」と呼ばれる。

(百瀬文晃、『キリスト教に問う』65のQ&A,女子パウロ会;岩島忠彦、『キリスト教についての21章、女子パウロ会;和田幹男、『聖書Q&A』、女子パウロ会;東京教区キリスト教え編集会、『キリストの教え入門』、1992改訂版、あかし書房を参照 』。

「神の場」の自覚と「神の場」の建設。信仰者と神とのつながりかたの三つの場について

数年前に日本国の森首相の失言は話題になった。「日本は神の国」と言ったので、いろいろ騒ぎがおこった。まあ、首相が何を考えていたか私にはわからないが、イエス様が好んでつかった「神の国」という表現に関して言えば、たしかに「国の神」とは正反対の意味をもっている。イエスがいう「神の国」というのは「この国の神』ではなく、すべての国々のための神及びすべての人のための神の国」のことを意味するのである。

「神の国」のことは、「天の場」、「真の命の場」「真理と命の国」、「慈悲と愛・正義と平和の国」「すべての分け隔てを超えた場」という風に置き換えることもできよ。そのような意味での「神の国」、「神が支配する世界」、「神が臨まれる世の中」がもうすでに到来しつつあるというのはイエス様の重要な主張であった。

この世の中は「神の場」になりかかっているが、人々はそれに気づかないのである。いや、気づかないだけではなく、「神の場」になるはずのこの世の中がそれになりきれないのは人間が妨げるからである。そこでイエス様の教えの二つの大きな主張は「神の国の到来に気づくこと」と「神の国の建設に努めること」である。言い換えれば、「いつ、どこで、どのようにこの世は神の場になりかかっていることに気づくようにしよう。そして、この世は神の場になりきるようにしよう。福音書を読むとわかるように、神の国の当来に気づくことと神の国を(築く)つくりあげていくようにするというのはイエス様が引き起こした運動の根本である。それこそ運動としての教会の発端である。

神の国に関する誤解

ところが、神の支配、天の王国に関する誤解がある。キリスト教の諸教会においてこのことについての誤解が生じている。そのため信仰者の共同体は二手に分かれてしまうことが遺憾ながらある。いわゆる「社会派」と「信心派」と言うレッテルをたがいに貼ってしまうことがある。

しかし、本来ならばそのように分かれてしまうはずはない。平和を育てようというときには、心の中の平和、対人関係における平和、社会関係における平和、国際平和、自然との平和などは互いにむすばれており、無関係のものではないのである。

山上の説教の中で「平和を作る人は幸いである」とも言うし、「正義のために迫害される人は幸いである」とも言う。

福音における正義と平和の捕らえ方を正しく理解するためにマタイ23,23参考になる:「誠、いつくしみ(ゆるしあい)、正義」と言う三つの重要なことは唯一の教えとして結ばれている。

このような福音の読み方にもとづいた信仰の持ち方がそだったら、決して教会内部における社会派と信心派の対立がないであろう。だから福音にもとづいた信仰の持ち方と社会への係わり方を育てたいものである。

福音書の読み方と福音の実践

福音書の読み方と福音の実践のあいだに相互関係がある。ともに祈り、ともに生きる信仰者の共同体は社会生活の経験に照らして聖書を読み、聖書からの光に照らして社会生活の経験をみなおす。

第二バチカン公会議が宣言した『現代世界憲章』(46項)では人類の現代の緊急な課題ととりくむための方法論として「福音と人間の得た経験の光のもとに」それを捉えることが勧められている。それは、言い帰れば、福音に照らして社会をみなおし、社会での生活経験に照らして福音書をみなおすという考え方と実践の方法である。(この方法から1970年代んイおいて「解放緒神学」と呼ばれるキリスト教の社会観と社会実践が生まれたのである」)。

福音書の社会的な次元に目を向けるような読み方をすれば、社会問題との取り組み方が変わってくるであろう。そのために「どこで」、「だれと一緒に」福音書を読むのかということが肝心である。

使途信条の三つの部分

使途信条の三つの部分は、イ)父なる神、ロ)イエス・キリスト、ハ)聖霊、である

信仰告白

キリスト教の信仰を表す「使徒信条」という文には昔から聖書にもと基づいて信仰告白が次のようにまとめられた。

カトリック教会のミサ(信仰者の集いである「感謝の祭儀」)の中では次のように「信仰宣言」が唱えられる。

天地の創造主、

全能の神である父を信じます。

父のひとり子、乙女マリアから生まれ、

苦しみを受けて葬られ、

死者のうちから復活して、

父の右におられる主イエス・キリストを信じます。

聖霊を信じ、

聖なる普遍の教会、

聖徒の交わり、

罪のゆるし

からだの復活、

永遠のいのちを信じます。

今ここでこの信仰宣言の真髄を手みじかに把握するためにその三つの部分すなわちイ)父なる神、ロ)イエス・キリスト、ハ)聖霊について一言ずつ述べ対のですが、その前にこの信仰告白の言葉の短い説明を挙げておきましょう。

天地の創造主。すべてのものの根拠であり、全てを創造し、支え、導く。

全能の神である父を信じます。すべての力を超える力、命いのちの源、父や母と呼ばれる愛の源。

父のひとり子

イエスと父なる神に絆というよりも「一致」を表す言葉。

乙女マリアから生まれた神でありながら真の人間となったキリストは「女から生まれた」。

苦しみを受けた。無実でありながら処刑された、愛に徹したあかし証。

葬られ。本当に死んだ。イエスの死は芝居ではなかった。

死者のうちから復活した。もう二度と死ぬ事がない永延永遠のいのちに入った。

父の右におられる。永延永遠の命いのちに入ったイエスは悪と死にうち勝ったことを表す言い方。

主イエス・キリスト。主は神。イエス・キリストは、イエスはキリストであるということの省略。

信じます。信頼して委ねます。

聖霊。父なる神の息吹、キリストの息吹。

聖なる普遍の教会。聖人でないにもかかわらず、我々は神によって聖とされます。普遍を目指して、全人類の一致の徴になろうとし、その一致の建設に役立てようとする教会。

聖徒の交わり。聖なるもの者の集まり、キリストの祭壇を囲んで集う教会、キリストの霊(息吹)によって集められた共同体

罪のゆるし。神から離れた状態としての野罪に対する神との絆の回復

からだの復活。復活したキリストの体との完全な一致

永遠のいのちを信じる。死後の世界を描写しない。それよりもしんで死んでも神から見捨てられることがあり得ないという信仰。

信じること

宗教」のことを「神聖なものに関する信仰」、信仰は「神・仏など、ある神聖なものを信じ尊ぶこと」と説明される(国語辞典)。ときには、「宗教」は「既成宗教」を指し、 「信仰」は宗教的な心のあり方を指して用いられる。

教科書では次のように使い分ける。宗教性または宗教心(宗教的な態度や信仰の持ち方)、宗教(制度や団体としての宗教)、宗教学(宗教についての学問)。

要注意:「宗教性」なしの「宗教学」は理屈っぽいものになり、抽象的な思想になりかねないのですが、「学」なしの「宗教心」は「迷信」や「熱狂心」になってしまうことにもなりかねない。

神を信じることは、神が存在することを認めるだけのことではない。信じることと知ることとは違う。信仰では、認識よりも信頼の面が大事である。信仰には当然なこととして、疑いが伴う。

信仰には必ず、「飛躍」みたいな面がある。信じるとは、神自身によって信じさせられることであり、信じたい心を引き起こすことでもあると言えよう。信じるとは恵みや賜であると同時に決断でもある。

「私は信じるが、信仰が足りない私をお助けください」(マルコ9,24)という言葉は、信仰者らしい祈りである。

信じるとは、ある特定の内容を頭で認めることよりも、生き方である。神を信じると信じないとでは、日々の生活や人間関係や直面する出来事などの意味が変わってくる。(そうかと言って自分が立派になったのではない)。

「信じる」とは、キリストによって自分の生き甲斐を見いだすことであり、自分の生活に意味を、人生に目的を、宇宙の歴史に方向付けを与えるものを見いだすことである。

信仰への道を歩みながらまだ信仰者になっていない者にも本人が気づいている以上の信仰があるかもしれないし、信仰者のつもりでいる者にも、信仰の火が消えてしまったり、明滅したりしていることもあろう。

神は人を通して私たちを招く。この招きのほかに、心に聞こえる神の声という内的な招きもある。この招きに応えて私たちは、「己をゆだねる心」をもって答えるとき信仰の道に入るのである。

全能―天地の創造主、全能の神である父―

「全能」という言葉について二つの幼稚な捉え方がある。イ)神は何でもお出来になるのだから、どんな罰があたるか分からないという受け止め方、ロ)神は何でもお出来になるのだから、何でも与えてくださるだろうという受け止め方。

全能:私たちの弱さを強め、私たちの力を力づける方。

創造主に関しても誤解がある。ただ単に、昔、神は世を創られたとだけ理解するのでは不十分である。全能の創造主への信仰は、次の二つの要素を含む。それは、過去において私たちを創り、現在において私たちを支え、未来に向かって私たちを導いてくださる方が、すべてのものの根源であり、私たちはいつもその方の内に生きており、その方によって生かされているという信仰である。

そうした神こそ、イエスが教えてくださった「天の父」と呼ばれる方である。 イエスが教えてくださった天の父が、わたしたちが神について抱いているちっぽけなイメージをはるかに越える方である。

全能の神である父を信じる

すべての力を超える力、命の源、父や母と呼ばれる愛の源。神ということばはもともと民間宗教の言葉である。

全能ということば抽象的すぎる。

父ということばはイエスが使った言葉であり、父なる・母なる神にむかって用いられると、神は近づきやすい方として感じられる。

神についての話し方―神についての三つイメージ。イ)理屈(難しいことば、抽象的な説明)。ロ)神話  (具体的なイメージ、民間宗教の神々。ハ)イエスの信仰、イエスの祈り方、イエスの話し方、

イエスの教えた「父なる神」・「母なる神」、「アッバ」

全能の父なる神という表現   「全能」 「父」 「神」

英語で; God, the Father, Almighty

ラテン語で: Deus Pater Omnipotens

イエスが教えた神に出会う場:    イ)心の中の場 マタイ 6,5-6、ロ)一緒に祈る場 マタイ 18,20、ハ)実践の場 マタイ 25、31-40

イエスが引き起こした運動:「神の国」への運動

この世は「神の場」になりかかっている  (「神の国」に気づくように)

この世は「神の場」になりきれない (「神の国」を造るように)

イエス・キリストを信じます

他の宗教にも見られる現象ですが、キリスト教も例外ではなく、やはり時代と共に発展するにつれて付随的なものがつけ加えられてきます。そして、必然的に理屈も儀式も規律も、いつのまにか、増えてしまい、創立のころの簡単な信仰の持ち方が複雑になってしまう。

ヨハネは「イエスにおいて真実のいのちが現れた」と言います(新約聖書ヨハネの第一の手紙、1,5参照)。このヨハネの手紙の冒頭にキリスト教の要約が見事に簡潔な形で表されている。イエスが伝えた「福音」、「良い知らせ」とは、一言で言えば、「いのちの源である方から人間は子供として愛されているので、人間には希望と生き甲斐が与えられており、兄弟姉妹の世界を作っていくように励まされている」ということに尽きるのである。

「真実のいのち」についてヨハネの手紙では次のように書いてある。

「はじめからあったもの、私たちが聞いたもの、私たちの手で触ったもの、私たちの目で見たもの、すなわち、命のことばについて・・・そのいのちが現れた。そして、父のもとにあったが私たちに現れたその永遠のいのちを私たちは見て、あなたがたに証しし、告げるものである・・・私たちが見たもの、聞いたものをあなたがたにも告げ知らせる。それはあなたがたも私たちとの交わりに与るようになるためである。私たちの交わりとは父とその御子イエス・キリストとの交わりである。そして私たちがこれらのことを書くのは、私たちの喜びが満ち溢れるようになるためである。私たちは彼から聞いており、あなたがたに告げ知らせるのは、神は光であって、彼の中にはいかなる闇も存在しないということである・・・(1ヨハネ1,1-4) 。この数行は『キリスト教入門』という題をもった多くの書物よりも、信仰の真髄を明らかにしてくれるのです。教えの中心は真のいのちです。「いのちの源」のことは「父なる神」と言われています。 その奥義はイエスにおいて現れました。イエスはその表現であり、「いのちのことば」と呼ばれている。

この手紙の差出人は複数の形(私たち」)で話しています。宛先人も複数です(あなたがた)。

交わり(ギリシャ語でコイノニア)という語彙も大事です。永遠のいのちの源なる「天の父から」、永遠のいのちの現れである御子を通して、私たちに永遠のいのちが与えられ、私たちを一つに結びます。

キリスト教のこの信仰を短く表すのは十字架のしるしを示しながらキリスト者たちの唱える「父と子と聖霊のみ名によって、アーメン」という祈りの言葉である。

イエスキリストである。

ナザレ生まれのイエスキリストと呼ばれています。

キリストとは、神から「遣わされた」者、「選ばれた」者、「油を注がれた」者、またはメシアすなわち救い主であり、私たちに救い(希望)をもたらす方だと信じている人にとってその名称は「主イエス・キリスト」である。言い換えれば、イエス(真の人)は主(真の神と同一のもの)であり、私たちに救い(希望、生き甲斐、ゆるし、永遠のいのちなど)をもたらすキリスト(遣わされた者、来たるべき者)だということである。

イエス・キリストとのめぐり合い

弟子たちの場合:1.生前のイエスに接しました。2.その教えから学びました。3.イエスの死後は「イエスキリストである」と言えるようになった。

私たちの場合:1.イエスの教えについて学びます(たとえば、本など)2.イエス・キリストを信じる人を通して学びます。3.内部から自分自身で「イエスキリストである」と言えるようになります。

「主は聖霊によって人となり、乙女マリアから生まれた」

マタイ福音書とルカ福音書におけるイエスの誕生物語は史的事実でもなければ、子供向けのおとぎばなしでもありません。それは信仰の立場からの創作です。その物語を通してイエスとは誰であるのか、そして神はどのように現れ、どこに見出されるのかということが伝えられる。

この話しを奇麗ごとにしてしまうと、マリアの妊娠は奇跡的な出来事であるかのように扱われ、イエスの誕生は例外的なことのように描かれてしまう。しかし、イエスの誕生は例外的であったというよりも、むしろすべての誕生において起こる不思議な謎はイエスの誕生に照らして解き明かされると言ったほうが適切な読み方のように思われる。というのは、どの子でも親から生まれると同時に、聖なる息吹によって生まれると言えるからである。

マタイ福音書に現れているように、ヨセフイエスの遺伝の親ではありませんが、マリアの結婚についての歴史的事実まで私たちが遡ることができません。さまざまな伝承が伝えられております。ある伝承によるとマリアは性的虐待の被害者だったのではないかと言われていますが、それは確かめられない。しかし、そうだったとしても、イエスにおいて神が決定的に現れ、イエスこそ我々の間に現れた神ご自身であるという信仰を否定することにはならない。かえって、どこに神が現れるのかということをますますはっきりと伝えられるようになるのである。

マリアの妊娠がわかって戸惑っていたヨセフにはみ使いが現れるという場面をマタイが描いたのですが、そのときのみ使いの言葉を次のように置き換えることができよう。「ヨセフよ、心配するな、この妊娠は神の息吹によって見守られています。つまり、どんな事情によって身ごもったにしても神の息吹によってその誕生が見守られています」。

イエス・キリスト

「イエス・キリスト」という名は、「イエスはキリストである」という私たちの信仰を一言で現したものである。その文章の主語はイエスであり、述語はキリストである。この述語をさまざまな表現で置き換えることがある。たとえば、「救い主である」、「神の子である」、さらに「私たちの希望である」というようにである。

イエスが教えてくださった根本的なことは、天に父/母なる神がおられるから、人間には希望があるということです。十字架につけられて死なれたそのイエスが、永遠の命いのちに入り、今なお生きておられるということが、その希望の根拠である。

キリスト教の信仰の内容を要約すると、「イエスは私たちの希望の根拠である」となる。ここで重要なのは、具体的な歴史上のイエスの姿です。ここにキリスト教の大きな特徴がある。

キリスト者は神を、自分の心や大自然の中に見いだすだけではなく、歴史の中で具体的な姿をとった者として見いだすのである。

新約聖書の中では、この信仰はいろいろな形で表されている。まずキリスト者の初期共同体は、使徒たちの次の教えを保ち続ける(使徒言行録2,42)。ナザレのイエスは救い主であり、十字架に付けられた後よみがえって生きておられる(同上、4,10)。

パウロは会堂でイエスが神の子であることを説教していた(同上9,20)と書いてある。1コリント15章には、キリストの死と復活を中心にした、もっとも古い信仰告白があります。信仰に入る人に求められる信仰告白は、イエスが主であり、神によって死からよみがえったということである(ローマ書10,9)。

この信仰告白は信仰者の一致の根拠である。「主は一人、信仰は一つ、神は唯一唯です」(エペソ書4,5-6)。典礼の中で使われる「アーメン」といいう言葉は「然り」という意味であって、次の二つのことを意味する。一つは神が私たちに向かってキリストを通して「アーメン」と仰せられたということであり、もう一つは私たちがキリストを通して「アーメン」と神に向かって言うということである(2コリント10,20)。

先に引用した箇所の他に多く引き合いに出すことができますが、短い重要な信仰告白として、少なくとも次の三つをよく参考にしておきたいと思う。

「われわれには唯一の父なる神がいるのみ、その方から万物は出で、われらはその方へと向かう。そして唯一の主イエス・キリストがいるのみ。その方によって万物は成り、われらもその方による」(1コリント8,6)

「あなたがあなたの口で主イエスを告白し、あなたの心のうちで、神はイエスを死者の中から起こした、と信じるなら、あなたは救われる」(ローマ書10,9)

「一人の主、一つの信仰、一つの洗礼、唯一の神にしてすべてのものの父であり、すべてのものの上に、すべてのものを貫いて、そしてすべてのものの内にいる方・・・」(エペソ書4,4-6)

十字架に付けられたキリストを信じる

十字架は罰ではない

9月14日に典礼の暦では「十字架の称賛」または「十字架の勝利」となっている。勝利とは「負けるが勝ち」ということであるが、イエスの死は世間的にみたら敗北であるが、イエスを復活させる神様からみたら勝利であり、愛の勝利である。

苦しみを受けた。無実でありながら処刑された、愛に徹したあかし証。

葬られた。本当に死んだ。イエスの死は芝居ではなかった。¥

ところで、当時の宗教と政治の指導者たちによって死刑に定められたイエスの死の意味について誤解が(カトリック信者のあいだでも)少なくないので、その意味を取り違えないようにしたい。

たとえば、「キリストの十字架の死によって私たちは購われた」というとき、「あがない」ということばは、「つぐない」とか「罰」とか「払い戻し」とか「買戻し」というイメージを思い起こすことがある。戦争終結後、捕虜を賠償金と引き替えに返還する(買い戻す)ということもその一例である。しかし、聖書では「あがない」という言葉の背景にあるのは、「解き放つ」という意味である。あがないは、買い戻しの支払いではなく、解き放つことであり、罪を滅ぼし、人を神と和解させることである。

ギリシア・ローマ文化の影響を受けた者の中には、あがないを「買い戻し」という狭い意味に解釈する者も多かった。中には「キリストは自分の血で支払って、悪魔からわれわれを買い戻した」などと、冒とくとも言える意見を述べる偏った説教さえ現われてきた。こんな考えはキリスト教に反するばかりでなく、あやまちである。

また、「キリストの血が神の怒りをなだめた」と説明する人もいた。この言い方も適切とは一言いがたく、誤解を招く。

「つぐない」という言葉も、誤解のもとであり、罰と結びついてしまう。今目でも、刑務所の苦痛や臨終の苦悶によって罪がつぐなわれるといわれる場合があるが、それは、苦痛や苦悩こそつぐないにとってもっとも重要だ、と考えられてしまうからであろう。その根底にあるのは、「報復を要求する正義」の考えであり、こうした正義の発する怒りをなだめなければならない、とする見解である。

このような考え方は、時にはキリスト教的と言われたりするのであるが、実は、キリスト教のつぐない観念とはほど遠いものである。しかし残念ながら、中世的な慣習やものの考え方、特に北欧の考え方は、説教者や著述家に好ましくない影響を与えた。そして、「キリストの受難は神の怒りをなだめる罰である」とか、「苦痛や死は罰である」とか、さらに、「神は罪人に無限のつぐないを要求しているが、それを支払えるのはキリストの血のみである」といったまったく誤った考えが強調されるようになったのである。

(今でもある特定の霊性や運動によってこの考え方が教会内でも伝えられることがあるが...)。

もっと思い切った説明をしよう。「十字架こそ救い」というひとことは誤解の元だと言わなければならない。イエスは私たちの救い主であると言われているのは十字架で「死んだから」ではなく、十字架で「死んだにもかかわらず」である。十字架に死んだにもかかわらず、今尚生きているから私たちの希望の根拠だと言えるのである。

キリストの十字架は何よりも和解とゆるしあいのしるしである。キリスト者たちは死刑制度に反対するとき、この和解の精神を促進しようとしている。

この間、日本でまた残念ながら死刑が執行された。その時、法務大臣の失言があった。「日本には死ぬことによって償う伝統があるから死刑を執行します」という暴言だった。私たちは「死んで償う」のではなく、「生きている者の和解によって互いに生かし合う」ことを求めたい。

黄泉の国

初めて教会を訪ねた方は聖書の言葉を聞いてわからないので、教えていただきたいと言っていた。なかでも、信仰宣言として私たちが唱えている使徒信条の言葉にひっかかっていた。十字架に付けられたイエスは「死に、葬られ、「黄泉」にくだり」と言うが...「黄泉にくだった」というのは日本の神話に出てくるイザナギとイザナミのような話しでしょうか。この質問をしていた方は文学に詳しくてギリシャ神話をご存知だったらしい。妻を連れもどしに死者の国に下るオルフェウスの話しとか、地下のいずみから流れる黄色の川などの話し...

でも、使徒信条で私たちが唱える言葉はその神話とは違う。黄泉に下ったというのは昔の詩人たちの言葉を使った聖書の表現である。

使徒行録2、24にペトロは次のように言っている。「神はよみの苦しみを解放して、イエスをよみがえらせた」。この言葉使いをしているペトロは象徴的な表現、大衆に通じるような表現を用いている。特に聖書の言葉を聞くのに慣れている人だったら預言者ホセアの言葉を思い出したであろう。ホセアは次のように神様に言わせている。「黄泉の地からあなたがたを解放し、死の国からあなたがたを救う」と言っている。

日本人だったら昔の詩人、万葉集とか俳句などになれているから、みな知っているような詩人の言葉を引用すれば話がピンとくる。この前、三人の友だちと六甲山に車で行った。その二人は日本人で、もう一人は日本語を覚え始めている外国人だった。車から降りると、お月様は綺麗に見えた。ちょっと冷えるからコートを着たほうがよいと言われたが、そのとき日本人の一人は「山寒し」と言い出した。「山寒し」という言葉を聞いたもう一人の日本人は次ぎのように言い続けました。「心のそこや、水の月」。なるほど、「山寒し、心のそこや水の月」。その二人は俳句になじみがある。ところが、それをはじめて聞く外国人はとまどって、「どうしてこころの中に水があるのか」「それはお月様とどんな関係があるのか」と聞くのだが、説明にこまる。

まあ、聖書の場合も似たようなことが起こる。字図らどおりに読んでもピンとこないことがたくさんある。先ほど引用した預言者ホセアの言葉はその一例である。他のところではこう言う。「死の国よ、あなたのたたりはどこにあるのか。黄泉の国よ、あなたの滅びはどこにあるのか」とある。(13,14)。またある詩篇の中にも次のように言われている。「神よ、あなたは、私の魂を黄泉に捨てておくことはなさらず、いのちの道を示してくださる」と唱っているが(14,10)。その詩篇を引用してペトロは死に打ち勝ったイエスの勝利を伝えていた。

今の教皇ベネヂクト16世は50年前に若い神学者だったころ使徒信条を説明する本を書かれた。それは日本語にも訳されており、「キリスト教入門」という本であるが、その中で「黄泉に下った」という使徒信条の言葉を次のように解釈している。その表現で表しているのはイエス様が本当に死んだ、芝居ではなく、本当に死んだということと、死んだイエスは二度と死ぬことがない永遠の命に入り、今尚生きているという信仰である。

このことは、比喩的に、象徴的な表現をとおして述べられている。

皆さんの中で何十年も前に洗礼を受けられた方は「古聖所」(ふるい、聖なる、ところ)と言っていたのを覚えがあるであろう。

教皇ベネヂクトが言っているように昔の中世時代のような説明のしかたにこだわる必要がない。そして前世紀の半ばごろまで用いられていた教えの本の説明にこだわらなくてもよい。そういった本などではこう説明されていた。つまり、昔から死んだ聖人たちはまだ天国に入らないで救い主を待っていると。そう考えられていた。彼らは待合室みたいなところにいたと思われ、それはアブラハムの懐と呼ばれていた。そこで、ご自分にせんじてなくなった正しい人々を解放するためにイエスは黄泉の国に下って解放しに行かれたと言われていた。

しかしこれは一つの象徴的な表現で、大切なポイントは結局イエス様の救いの業はすべてのところ、すべての人、すべての時代に及ぶものであり、私たちを大切にしてくださっている神様は私たちを忘れることがありえないので、私たちは死んでも永遠に生きるという信仰である。

そういった信仰を語るとき日本に伝わっているキリスト教の表現や説明の仕方には、ヨーロッパの中世時代や19世紀末の教え方に強く影響されているものがあり、このような一時期の神学や教え方にこだわらないようにするとよい。そういったこだわりをなくすと、もっとのびのびとキリスト教を受け入れることが出きるであろう。

私たちはそのように人に伝えることができるように大人としての信仰の持ち方に成長し、教えの真髄をよく理解するように願いたい。

イエスの復活とは、ラザロ物語の「いきかえり」とは違う。

まず、「三日目によみがえった」という表現にこだわらないようにしよう。三日間が経ったのではなく、「決定的に永遠の命に入った」という意味である(ホセア6,2参照)。そして「復活した」という言葉も「この世のいのちに生き返った」というふうに受け止めないように注意しよう。(民間宗教のレベルではこの世の命に生き返ることと間違えられがちである)。

イエスが復活されたというのは、幽霊の話しでもなく、この地上のいのちに生き返ることでもない。復活は死に対する命の勝利であり、もはや死ぬことがなく、神様のうちに永遠に生きることであって、復活した方こそ「生きている方」(黙示録1,18)である。十字架に付けられたイエスは今なお生きておられることを証してキリスト者たちは日曜日ごとに集まる。

復活するとは「墓から死体が蘇る」とかいう表現で適切には表わせない。ラザロ物語(Jn 11章)のような蘇りでもないし、蘇生術によって死体に生き返らせることでもないのである。

イエスは今尚生きているということは科学的に証明されるようなことでもなければ、歴史研究によって立証されることでもない。その信仰を実践している共同体(キリストの体とキリストが引き起こした運動の延長である共同体)が復活の証である。殉教者たちは復活の典型的な証人である。

ヨハネ福音書では象徴的に言う。「門が締め切ってあったのに、イエスは彼らの間に現れた」(Jn20、19)。しかし壁を通して魔法的に入ったのではない。いつも常に彼らの間におられたが、彼らはまだ気づいていなかったのである。出現のときにデジタルカメラを持つものがいたとし、写真を撮ったとしてもその写真には復活者が出てこなかったであろう。なぜかと言えば、信仰の目(Eph 1,18)でしか見えないからである。

Lc 24,36:「彼らの真ん中に立ち」  (ギリシャ語で:este en méso autón)。

Jn 20,19:「イエスが真中に立っていた」(ギリシャ語で:éste eis to méson”)。

復活者は「外から」とか「上から」というふうに来られるのではなく、すでに中心におられるのである。いや、来られたというよりも現れた(epiphany)と言ったほうが適切である。復活という言葉との関連では、ラチンガー教授が40年前に言っていたように、「肉体の蘇り」という言い方も見直すべきである。それは、死んだ肉体が魂を取り戻すようなことではなく、体から離れた魂の存続でもなければ、生前の体を取り戻すことでもない。むしろ死を通して変容され、聖霊の息吹によって永遠に神のうちに生きるようにさせられるということである。

まず、「三日目によみがえった」という表現にこだわらないように。三日間が経ったのではなく、「決定的に永遠の命に入った」という意味です(ホセア6,2)。

そして「復活した」という言葉も「この世のいのちに生き返った」というふうに受け止めないように注意しましょう」。(民間宗教のレベルではこの世の命に生き返ることと間違えられますが…)。

十字架に付けられたイエスは今なお生きておられることを証してキリスト者たちは日曜日ごとに集まります。イエスが復活されたというのは、幽霊の話しでもなく、この地上のいのちに生き返ることでもありません。

復活は死に対する命の勝利であり、もはや死ぬことがなく、神様のうちに永遠に生きることであって、復活した方こそ「生きている方」(黙示録1,18)です。

復活するとは「墓から死体が蘇る」とかいう表現で適切には表わせませんし、ラザロ物語(Jn 11章)のような蘇りでもないし、蘇生術によって死体に生き返らせることでもないのです。

イエスは今尚生きているということは科学的に証明されるようなことでもなければ、歴史研究によって立証されることでもありません。その信仰を実践している共同体(キリストの体とキリストが引き起こした運動の延長である共同体)が復活の証です。殉教者たちは復活の典型的な証人です。

ヨハネ福音書では象徴的にいます。「門が締め切っていたのにイエスは彼らの間に現れた」(Jn20、19)。しかし壁を通して魔法的に入ったのではありません。いつも常に彼らの間にいたが、彼らはまだ気づいていなかったのです。出現のときにデジタルカメラを持つものがいたとし、写真を撮ったとしてもその写真には復活者が出てこなかったでしょう。なぜかと言えば、信仰の目(Eph 1,18)でしか見えないからです。

Lc 24,36:「彼らの真ん中に立ち」 (ギリシャ語で:este en méso autón)

Jn 20,19:「イエスが真中に立っていた」(ギリシャ語で:éste eis to méson”)。

外からとか上から来られるのではあえりません。すでに中心におられるのです。いや、来られたというよりも現れた(epiphany)といったほうがよいです。

復活という言葉はラチンガー教授が40年前に言っていたように、「肉体の蘇り」という言い方を見直すべきです。死んだ肉体が魂を取り戻すようなことではなく、体から離れた魂の存続でもなければ、生前の体を取り戻すことでもありません。むしろ死を通して変容され、聖霊の息吹によって永遠に神のうちに生きるようにさせられることです。

天に昇って

「天に昇った」という象徴的な表現によってイエスは今尚生きておられることが表わされています。「天に昇った」というのは雲の上にいると言う意味ではありません。死んで永遠の命に入ったイエスが肉眼で見えないが、常に私たちと共おられます。そして私たちをつかわし、私たちの手と足を通してはたらきます。

この教えを聖書はいろいろな表現であらわします。たとえば、ご商店を表す次の五つの五つの表現を検討しゅいましょう。

1)「上にあげられた」(ルカ24,51)、「上にいる」というのは「死にうちかった」という意味です。 2) 「父なる紙の右の座についた」(使徒2,33)、「右の座にいる」というのは「裁く権能を与えられた」と言ういみです。3)「あなたがたより先にガリラヤに行く」(マルコ16,7)、「先にいる」,「先に歩いている」というのは日常生活の現場にいると言う意味です。 4)「世の終わりまであなた方と共にいる」(マタイ28,20)、「常に共にいる」、「傍にいる」というのは共同体の中にいるという意味です。5) 「すべてを満たしておられる」(エペソ教会への手紙4,9-10)というのは私たちのうちにおいてもすべてのものにおいても現存しているということです。

聖霊(神の息吹)

「父と子と聖霊」と言われますが、私たちはむしろその逆の順序で神に至ります。すなわち、聖霊によってキリストを通して父なる神へと至るのです。使徒たちにとってもそうでした。ヨハネ16,12-15のイエスの言葉に、「聖霊は弟子たちに、イエスが誰であるかを示し、天の父のことを現してくださるであろう」とあります。

わたしたちの場合には、共同体の現実の中でも、個人の心の中でも、聖霊はイエスと父を現してくださいます。大自然を通して、共同体と歴史を通して、そして私たちの心の中に聞こえる神の声を通して、聖霊は父なる神を私たちに現してくださるのです。

信仰告白の中でわたしたちが言う「信じます」という言葉は、聖霊によって言えるものです。「聖霊を信じ、教会を信じ、罪の赦しと、体の復活と永遠の命を信じる」という表現がありますが、これは正確には、聖霊を信じ、教会という場において神を信じ、そして罪のゆるしと永遠の命に向かって信じるということです。

罪のゆるしを理解する出発点も聖霊です。聖霊は新しい心を私たちのうちに創造するからです。そして体の復活を信じるとは、父なる神が私たちに対して、イエスになさったのと同じようになさってくださるであろうと信じることです。私たち一人一人の生涯、人類の歴史、また宇宙全体も、父なる神によって新しくされるだろうと信じることです。

ローマ書8,11を思い出しましょう。体の復活と創造主である聖霊自身による人間の再創造についての箇所です。それは単なる肉体のよみがえり以上のものです。それが1コリント15,44で、難解ですが深い表現でのべられて述べられているます。

神様の「気」(プネウマ)、聖なる「命の息吹」を信じる

使徒信条の第三部は「聖霊を信じる」と言うが、「聖霊」という言葉は誤解されやすい。わたしたちは「父と子と聖霊のみ名によって」と祈るが、この「と」(英語でand)は、神様は三者であるかのように誤解されやすい。本講座の最初から強調したように、「父」とは、いのちの源である神のこと、「子」とは、わたしたちの間に現れ、神の顔を示してくださったイエスキリストのこと、聖霊はいのちの源である神の息吹、イエス自身の息吹、私たちのうちに宿り、すべてのものを生かす神の息吹のことである。

使徒信条の第三部の要点を思い出そう。「聖霊を信じ、 聖なる普遍の教会、 聖徒の交わり、 罪のゆるし 、からだの復活、 永遠のいのちを信じる」と。

聖霊。父親とも母親とも呼ばれうる神の息吹、イエスキリスト自身の息吹。

教会。「教会を信じる」のでもなければ、「教会が言っていることを信じる」と言うのでもない。「教会の中にいて」、「教会の中に身をおいて」(ラテン語でin Ecclesia)神を信じるという意味である。

聖なる教会。聖と呼ばれるのは聖なる神の息吹によって生かされ、集められている人々の集いだからである。聖人でないわたしたちは神によって聖とされる。

普遍。普遍とは「カトリック」の意味である。すべての分け隔てや差別や違いを超えて、人類の一致を目指し、その一致の徴になるのは教会の使命である。

教会は「聖徒の交わり」や「聖霊の交わり」や「諸信徒の和合」と呼ばれるのは「聖なる神の息吹によって一つにされている人々のつどい」であり、その繋がりこそ教会を作るものだからである。神によって「尊いものとされた供え物を奉げ、キリストの祭壇を囲んで集う教会は、キリストの霊(息吹)によって集められた共同体である。ただ、聖霊の働きは決して教会内だけではない。教会の中で私たちが祝うのはすでに教会の外で起こっている出来事すなわち聖霊の働きを祝うためである。

罪のゆるし。神との繋がりが断ち切られてしまっても、神に立ち返る道と機会をいつも与えられている。そして神から受け入れられ、ゆるしていただいている者は互いにゆるしあいたい。

「からだの復活、永遠の命を信じる」。「からだの復活」や「肉親の蘇り」も誤解されないように注意したい。復活とはこの世の生活に再び帰るような「墓からの蘇り」ではなく、二度と死ぬことがない真の命すなわち永遠の命に入ることであり、神様の命のうちに永遠に生きることである。キリスト教では死後の世界を描写しない。わたしたちは、死んでも神から見捨てられることがあり得ないという信仰をもってその死後の変容や在り方を神様にゆだねる。」?

「父と子と聖霊」と祈るが、私たちはむしろその逆の順序で神に至る。すなわち、聖霊によってキリストを通して父なる神へと導かれる。使徒たちにとってもそうであった。ヨハネ16、12-15のイエスの言葉に、「聖霊は弟子たちに、イエスが誰であるかを示し、天の父のことを現してくださるであろう」とある。

共同体の現実の中でも、個人の心の中でも、聖霊イエスと父を現してくださる。大自然を通して、共同体と歴史を通して、そして私たちの心の中に聞こえる神の声を通して、聖霊は父なる神を私たちに現してくださるのである。

信仰告白の中でわたしたちが言う「信じる」という言葉は、聖霊によって言えるものである。「聖霊を信じ、教会の中で身をおいて神を信じ、罪の赦しと、からだの復活と永遠の命を信じる」という表現があるが、これは正確には、聖霊を信じ、教会という場において神を信じ、そして罪のゆるしと永遠の命に向かって信じるということである。

罪のゆるしを理解する出発点も聖霊である。聖霊は新しい心を私たちのうちに創造するからである。そしてからだの復活を信じるとは、父なる神が私たちに対して、イエスになさったのと同じようになさってくださるであろうと信じることである。私たち一人一人の生涯、人類の歴史、また宇宙全体も、父なる神によって新しくされるだろうと信じることである。

これに関してヨハネの中での最も大切な言葉を引用しておこう。

「私は父のうちにおり、あなたたちが私の内にいて、私もまた、あなたたちの内にいるのだ」(ヨハネ14、20)。

「父よ、あなたが私の内に、わたしがあなたの内にいるように、彼らも私たちの内におられるようにしてください」(ヨハネ17、21)。

PADRE NUESTRO

PADRE NUESTRO. LA ORACIÓN DE JESÚS, PALABRA POR PALABRA

Padre nuestro: Dios, Padre mío y Padre nuestro. Dios, Padre y Madre. Dios, Fuente de la Vida. Dios, Padre de toda la humanidad, Tú nos das la dignidad humana, haciendo que seamos hermanos y hermanas en una misma familia de hijos e hijas de Dios.

Que estás en el cielo: Que estás en la vida, que estás en nuestras vidas, que estás en nuestras familias con sus penas y alegrías, que estás en todas partes, dando vida.

Santificado sea tu nombre: Tú solo, Señor, eres Santo. Que Te alabemos, te adoremos y te glorifiquemos. Que te demos gracias, Señor. Gracias por la vida, gracias por tu gloria.

Venga a nosotros tu reino: Que reine en este mundo la verdad y la vida, la justicia y el amor. Que hagamos un mundo de hermanos y hermanas, hijos e hijas de Dios.

Hágase tu voluntad en la tierra como en el cielo: Que nos demos vida todas las personas, unas a otras mutuamente, para que la tierrra se convierta en un cielo. Hágase tu voluntad en la vida de nuestras familias y en el lugar de nuestro trabajo.

Danos hoy nuestro pan de cada día: Danos fuerza de vivir, alimento para el cuerpo y el espíritu. Que nos demos mutuamente el pan para comer y el pan de compartir alegrías y sufrimientos. Danos el pan de tu Palabra y el pan de la Eucaristía.

Perdona nuestras ofensas como también nosotros perdonamos a quienes nos ofenden: Perdónanos, Señor, y haznos capaces de perdonar, de convivir y reconciliar, de recibir perdón. Perdona Tú, Señor, a quienes no seamos capaces de perdonar.

No nos dejes caer en la tentación y líbranos del mal: Líbranos, Señor, de todo mal: de las heridas que recibimos, de las heridas que causamos y de las que nos hacemos a nosotros mismos. Que podamos liberar a las víctimas del mal en la sociedad.

A ORAÇÃO DE JESUS, PALAVRA POR PALAVRA

(Façamos a prova de expressar com nossas próprias palavras o que nos diz cada uma das frases do Pai Nosso. As seguintes linhas são somente um exemplo. Cada pessoa poderia escrever uma versão do Pai Nosso com as suas próprias palavras).

Pai nosso: Deus, meu Pai e nosso Pai. Deus, Pai e Mãe. Deus, Fonte da Vida. Deus, Pai de toda a humanidade, Vós nos dais a dignidade humana, tornando-nos irmãos e irmãs numa mesma família de filhos e filhas de Deus.

Que estais nos céus: Que estais na vida, que estais em nossas vidas, que estais nas nossas famílias, com suas penas e alegrias, que estais em todas partes, dando vida.

Santificado seja o vosso nome: Só Vós, Senhor, sois Santo. Que Vos louvemos, Vos adoremos e Vos glorifiquemos. Que Vos demos graças, Senhor. Graças pela vida, graças por vossa glória.

Venha a nós o vosso reino: Que reine neste mundo a verdade e a vida, a justiça e o amor. Que construamos um mundo de irmãos e irmãs, filhos e filhas de Deus.

Seja feita a vossa vontade assim na terra como no céu: Que nos demos vida todas as pessoas, umas a outras mutuamente, para que a terra se transforme num céu. Seja feita a vossa vontade na vida de nossas famílias e no lugar do nosso trabalho.

O pão nosso de cada dia nos dai hoje: Dai-nos força de viver, alimento para o corpo e o espírito. Que mutuamente nos demos o pão para comer e o pão de compartir alegrias e sofrimentos. Dai-nos o pão de vossa Palavra e o pão da Eucaristia.

Perdoai-nos as nossas ofensas assim como nós perdoamos a quem nos tem ofendido: Perdoai-nos, Senhor, e dai-nos capacidade de perdoar, de conviver e reconciliar, de receber perdão. Perdoai Vós, Senhor, aos que não sejamos capazes de perdoar.

Não nos deixeis cair em tentação, mas livrai-nos do mal: Livrai-nos, Senhor, de todo mal: das feridas que recebemos, das feridas que causamos e das que nos fazemos a nós mesmos. Que possamos libertar as vítimas do mal na sociedade.

イエスが教えた祈り

 天と地

 これからイエスが弟子たちに教えた祈りを中心にイエスの教え(福音)を紹介したいと思います。

 マタイ福音書の中にイエスが語った「山上の説教」(マタイ 5, 6,7章) がありますが、それを読むと明らかなように、イエスが説いた「天の国」(「いのちの王国」、「神が望まれる世界」、「愛と平和の国」とも置き換えられます)とは日常の中に発見されます。天の国を信じるとは、この地上に天国を発見することです。物事のうわべを越えて、その奥にある何ものかを見る目を育てることです。

 さらに、天の国を信じるとは、隣の人と肩を組んで、この地上で天の国を作ろうとすることでもあります。

 では、天の国を発見する目は、どのようにしたら養われるのでしょうか。この地上で天の国を築き上げる力をどこから得ることが出来るのでしょうか。その秘訣はイエスが教えてくださった「天の父」です。

 今ここで、「山上の説教」で示されたイエスの教えの中核を簡単に述べて見ます。それは次の三点にまとめられます。

 イ)天の父がおられること、

 ロ)われわれ皆が兄弟姉妹であること、すなわち人間は皆「身内の者」になっており、「よそ者」と言える者は誰一人いないこと、

 ハ)この地上で天の国を発見しながら、それを一緒に作っていくこと、の三点です。

 私はこの節に「天と地」という小見出しを付けました。それは読者がイエスの教えてくださった「主の祈り」を自分の言葉に置き換え、それぞれの日常生活の中で口にし、天の父へと心を向け、日々天の国を発見する目と、天の国を築いて行く力を得られるようになることを願っているからです。

 主の祈り

 ある日のこと、弟子たちがイエスに、「どのようにして祈ればよいのでしょうか。」と尋ねました。イエスは答えました。「長い時間をかける必要はない。オウム返しのように祈ることはしないで欲しい。ただ素直に天の父に心を向けなさい。例えば、次のように祈りなさい。『天におられる父よ、私たちの父よ、御名があがめられますように。み国が来ますように。み心が行われますように。地にも天にもそうでありますように。私たちに、今日もこの日の糧をお与えください。私たちの負い目をおゆるしください。私たちもそのように人々をゆるすことができますように。試みに負けないように私たちを助け、悪からお救いください』と。(マタイ6,9-13;ルカ11,2-4参照)。

 この言葉は何世紀にもわたり、キリスト者の最も大事な祈りとして大切にされてきました。それは日本語で「主の祈り」、(以前は「主祷文」)と呼ばれています。

 ここに載せた祈りの言葉は、実は、分かりやすく訳したものです。

 次に、カトリック教会の感謝の集い「ミサ」の中で唱えられる「主の祈り」を以下にのせておきます。

天におられるわたしたちの父よ、

み名が聖とされますように。

み国が来ますように。

みこころが天に行われるとおり、

地にも行われますように。

わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。

わたしたちの罪をおゆるしください。

わたしたちも人をゆるします。

わたしたちを誘惑におちいらせず、

悪からお救いください。アーメン

 この文にはもちろん難しい点もあり、初めて聞くと首をかしげるところもあるかもしれません。しかし、よく祈られているものなので、まずその祈りの言葉を用いて説明をしてから、私なりの言葉に置き換えたいと思います。短いこの祈りの一語一語には深い意味があります。それをゆっくり味わいながら、唱えるようにしたいものです。

 教父アウグスティヌスは、「書物はすべて焼いてもよい。ただ『主の祈り』と、『信仰告白』さえあればよい」と言っています。またミサの中で、この祈りが「いのちのパン」をいただく前の重要な箇所で唱えられることにも注意しましょう。

   

 天におられる父よ

 「天におられる父よ」と言うときに一体そのような呼び方をされる神はどこにおられるというのでしょうか。そしてまた、父という呼び方は何を意味するのでしょうか。まず、この二点を明らかにしましょう。

 「天におられる」というのは決して、ある芸術作品に見られるような、神様が空の雲の上で羽衣の天使たちに囲まれて座っていらっしゃるということではありません。それよりもむしろ、神は私の心の中にも、「あなた」の心の中にもおられる方であり、すべてのものの中にも、いやすべてのものを包みながらどこにでもおられる方である、と言ったほうが適切でしょう。

 二点目は、この祈りの初めで神のことが「天の父」と呼ばれており、ここで「神」という言葉が使われていないことにも意味があります。神のほうに心を向けて祈り始めるとき、「神よ」とではなく「天の父よ」と呼びかけるのです。そう呼ぶことによって、神のことを身近な方、近づき易い方として感じることができます。(ヘブライ語ではアッバ、スペイン語などではパパと言います。)

 イエスが説く神は、漠然とした抽象的な神でもなければ、神話に出てくるような神々ともまた違います。イエスが教えてくれた神は私たちが「天の父」と呼ぶことのできる方なのです。

 次に、「父」という言葉が、われわれの心にどのようなイメージを思い浮かばせるかを問わなければならないでしょう。なぜかと言えば、人が神というときに浮かんでくるイメージによって、神の捉え方も神との関わり方も変わってくるからです。

 「主の祈り」で言う「天の父」は「地上のお父さん」に対して「天のお父さん」である、と字義通りに説明しても十分ではありません。また、優しい母に対比される厳しい父でもありません。それは母のイメージと父のイメージの両方を含むと同時に、創造主であるという意味も含みます。母であり、父である「天の父」は私たちを生かし、導き、受け入れ、愛してくださる方という豊かな意味を持つ言葉です。「天の父」や「天の母」と呼んでもよいし、昔風の中国語や日本語で呼ばれたように、「天主」と呼んでもよいでしょう。

 ここで二つの誤解を避ける必要があります。一つ目は、父を恐ろしい存在として捉えることであり、二つ目は、母を甘えるだけの象徴として捉えることです。ここで言う父とは、人間が持っている父親と母親のイメージを含むと同時に、両方をはるかに越える父としての神、母としての神、いのちの源としての神なのです。

 神がすべての人の父であるということと、神に向かって「父よ」と呼びかけることが出来ることは、イエスが教えてくださったことです。この意味で私たちが神に向かって「父よ」と呼びかけるとき、私たちはイエスと共に、イエスによって、イエスのうちにあって、「父よ」と言います。言い換えれば、私たちの側におられるイエスと共に神を求め、私たちの前に道を歩まれたイエスによって神のほうに歩み続け、私たちのうちにおられるイエスと一致して、神に向かって「父よ」と祈るのです。

 そして、私たちはこの祈りを、ある時には天を仰ぎながら唱え、ある時には目を閉じて唱えます。天を仰ぐときには、すべてを越える方としての神に心を向け、目を閉じるときには、自分と、万物の根底におられる方としての神に心を向けていると言えるのではないでしょうか。

 以上のことから、この祈りを決して美化された甘美なものとしてとらえてはならないことがわかります。むしろ、私たちの日常生活に密着した祈りになりうるのです。日常生活の中には明るいときもあれば暗い時もあり、またこれという明るさも暗さもない単調な日々もあるのです。そこで、あかるい時に感謝し、つらいときに助けを求め、そして、起伏のない平坦な日々の、これという喜びも苦しみもないときにも、私たちは天の父によって生かされていることに気づくと、日常生活の中で湧き上がる祈り方ができるようになります。

 もちろん嬉しい時には、何でも自分の力によってできると思わないようにしたいでしょう。また悲しい時には、神に向かって率直に、「父よ、どうしてこういう時に限って、こういうことがあるのでしょうか」と祈ってもよいのです。こういった日常生活の中で、信頼と感謝のこもった祈りを唱えるように心がけるためには「主の祈り」が大きな助けとなります。

 とにかくここで強調したいのは、神が父であることについて話すということよりも、父としての神に祈れるということのほうが、大事であるということです。神を父として見出し始めた者は、神を探し求めながら、「父よ」と祈り続けます。

 ここで「見出しはじめた」とか「探し求める」とか「祈り続ける」とかいうような言い回しを意図的に使いましたが、私たちは神を見たから祈るのではありません。逆に、神のほうから見られていると信じながら、なかなか知り尽くすことのできない神に近付こうとするのです。言い換えれば、私たちは神を理解し尽くしてから祈るのではなく、いずれ分かるようにと願い、イエスが教えてくださった神が、とにかく近付きがたい神ではないと信じて、「父よ」と呼んで、探し続けるのです。

 そのために、「主の祈り」の中で「神」という言葉が出て来ないということに気を付けたいのです。先ほど強調したように、私たちの祈りの対象は、漠然とした神でも、単なる抽象的な絶対者だけでもありません。また、神話の中に出てくる神々のような者でもなく、「父」(お父さん、お母さん)と呼ばれる方なのです。

 では、ここで聖書の言葉を読みましょう。

 「あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であるならば、神によって定められた相続人でもあります」(ガラテヤ書4,7)。

 「このキリストに結ばれた私たちは、キリストを信じることによって、臆することなく、確信をもって歩みを進めることができるのです」(エペソ書 3,12)。

 またヨハネ福音書(1,18)で述べられているように、神を見たものは誰もいません。信仰者とは、神を見た人々ではなく、天の父の懐におられるイエスが神のことを説き明かしたイエスの言葉を信じ、その言葉に導かれて、神を探し求め続けている人々だと言えます。

 要するに、信じるということは、この真実に目覚めたり、気付いたりすることであり、神の呼びかけに対して「聞く耳」を持ち始めることです。あるいは聖書で言われているように、肉眼では見えないことを心の目で見ることができるようになるということです。

 もうひとつ、エペソ書(1,18-19)の言葉を思い出しましょう。

 「あなたがたの心の目が照らされて、神の招きに伴う希望がどのようなものであるかをあなたがたが知ることができるように祈っています」。

 聖書では「聞く耳」をもつことはとても大切にされています。最近、電車の中で、携帯電話で話したりヘッド・フォンで音楽を聞いたりしている人々の姿をよく見かけます。その人々は、周囲の雑音で聞きづらいことも多いでしょう。私たちも日常生活の中の雑音に戸惑わされて、天の父に耳を傾けることのできないときがあります。もしかすると、神に耳を傾けられない人は、人々の言うことも聞いていなのかもしれません。あるいは、その逆に神の言葉に耳を傾けて、はじめて人々の言うことが聞けるようになることもあるでしょう。

 母親は子供が泣く前に目を覚ますことがあり、相当な聞く能力を持っています。私たちは神の言葉を聞く能力を失いかけているかもしれないのですが、それを取り戻す必要があるでしょう。

 無邪気な子供の目は、母親の顔を映し、天を映し、いわば神の顔を映しています。成長して行くにつれて、鏡のようなその目が曇ってきます。私たちはあるときには背伸びをし、あるときには自己卑下をします。あるときにはすきを見せまいとして自己防衛の鎧を身につけ、人間関係の中で身がまえます。あるときには優越感に浸り、あるときには劣等感を抱きます。あるときには自分について人が何を考えているかを気にし、あるときには特定の印象を与えようとして気を遣います。

 しかし、天の父は、私たちのありのままを見ておられます。天の父のみ前にいる私たちは、自分をありのままに位置づけられていますから、ありのままの自分を見ることができるようになります。

 ですから、天の父のみ前で祈るとき、各自の年齢とその人が置かれている状況に相応しい祈りが湧き起こってくるのです。なぜなら、天の父のみ前では、背伸びすることも自己卑下することも必要ではないからです。

 そして不思議なことに、わたしたちを一番ありのままに見ておられる天の父が、わたしたちを一番受け入れてくださっているのです。

 天におられる。

 先に述べたように、この言葉の「天」は雲の上ではなく、神がすべてを満たすものであることを表します。夜になると、地上のあらゆるところから同じ星を見ることができるのと同様に、「天」というイメージは、神がどこにでもおられるということと、私たちにとって神は知り尽くすことのできない方であるということを表しています。

 神が天におられるということは、裏返して言えば、神がおられるところ、どこでもが天になっているということです。

 したがって、神を求めて遠い天国へと旅立つ必要はありません。なぜなら、今、ここに神がおられ、天国はここにもあるからです。聖アウグスティヌスも「自分は長いあいだ神を探し求めてきたが、神は自分に一番近い所におられることにやっと気がついた」と言うのです。

 素朴な見方をすれば、天は空の雲の上になります。神を信じないと言っていた宇宙飛行士は、「こんなに上まで飛んで来ても神なんか見当らない」と言ったそうです。それとは対照的に、もう一人の宇宙飛行士は神を信じていたので、空の上から星空を観察しながら神を賛美していたそうです。しかし、最も印象深かったのは三人目の宇宙飛行士の話でした。彼は遠くから地球を眺め、広大な星空に圧倒されて、ふと思ったそうです。「ここまで昇って来て、神様はどこにおられるのだろうかと思ったが、そのとき自分のそばで居眠りをしているもう一人の宇宙飛行士の鼾を聞き、急にそこに神がおられることに気づいた」と言っているのです。

 またチベットの熊の譬え話もあります。熊はあるとき、何か、いい香りがするのに気付き、それがどこから流れて来るのか、あたりを捜し回りますが、見当たりません。ある日のこと、山の中を駆け回って、イバラで胸を傷つけ、治そうとして胸をなめた熊は、その香りがその傷のところから出ているのに気付きました。香りは、自分に一番近い所から出ていたのです。(熊の胸部には、芳香のある油袋があるらしい)。

 神は、多くの人が気付かずにいるところに、人間に一番近いところにおられるのです。このことを実感しながら「天におられる父よ」と祈りたいのです。

 私たちの父よ

 この祈りの言葉の呼びかけが複数であることを見逃さないようにしましょう。「私の父よ」とではなく、「私たちの父よ」と祈ります。私たちは天の父がいると信じている人々の中に身を置いてこの祈りを唱えるのであって、この祈りを個人的な祈りに終わらせてしまわないように注意しましょう。

 さらに、「私たち」とは、決して信仰者のことだけを指しているのではなく、兄弟姉妹であるすべての人々を指す人類共同体のことです。天の父がおられることを聞いたことのない人々もみな私たちの兄弟姉妹であることを思い、すべての人のことを天の父に任せて祈りましょう。

 また前述のように、この祈りにおける「父」とは、父親と母親の両方のイメージをもっていますので、この「父」という言葉は父親と母親の優れた点を象徴し、私たちの考えがちな狭い意味での父や母を遙かに越える方を指す言葉として使われています。この父は、恐るべき厳しい父でもなければ、甘やかすだけの母でもありません。いや、むしろすべての源であり、誠の愛の泉であり、全ての兄弟姉妹を一つに結びつけることを望む方なのです。

 そして、天の父はなかなか兄弟姉妹として一つになれない私たちをそうなるように助けてくださる方です。というのは、天の父は私たちを弱さから解放するだけでなく、私たちの「強さを強さたらしめる」方だからです。

 聖書では古来「神は神を信じる正しい人たちの父」と言われてきました。また、私たちの父であるとイエスが教えてくださった神は、マタイ5,45で言われているように、善人の上にも悪人の上にも雨を降らせ、太陽の日差しを送ってくださる方です。

 そのような神に向かって私たちは、恐れの気持ちからではなく、子供のような信頼をもって、「父よ」と祈るのです。「あなたがたは、人を再び恐れにおちいらせ、奴隷とする霊を受けたのではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって、私たちは『アッバ、父よ』と叫ぶのです」(ローマ書8,15)。それで、私たちはイエスと声を合わせて、この祈りを唱えるのです。

 イエスは厳密な意味での神の子として「父よ」と言われますが、私たちはイエスと一致して始めて、父なる神に向かって「父よ」と言えるのです。このように祈ると、私たちの祈りはイエスの祈りの「こだま」となります。父に向かって「私たちの父よ」と祈る私たちは、互いに兄弟姉妹です。

 ここでマタイ23,9の言葉を思い出しましょう。「あなたたちは、地上で何者をも〈父〉と呼ぶな。あなたたちの父はただ一人、天の父のみだからです」。

 ここまで進んだ時点で、ヨハネ第一の手紙の初めのことばを思い浮かべたいのです。その言葉も、キリスト者の信仰を一人称の複数で表しています。

「はじめからあったもの、

 また、私たちが聞き、

目で見、見つめ、

手でふれたいのちのことばについて、

あなたがたに伝えます。

いのちは現れました。

私たちは永遠のいのちを見ました。

それをあなたがたに証し、伝えます。

このいのちは「父なる神」とともにあり、

私たちに現れました。

私たちが見たこと、聞いたことを

あなたがたにも伝えるのは、

あなたがたも私たちと、

交わりを持つようになるためです。

私たちの交わりとは、私たちが、

父とその子イエス・キリストと交わることです」(1ヨハネ1,1-3)

  この聖書の言葉の中で「父」とは、

 イ)いのちを与える方、

 ロ)私たちを導いて来られた方、

 ハ)今、私たちを支え、受け入れてくださる方、絶対に信頼できる方です。母親がたとえ子を忘れたとしても、神が私たちを忘れることはありえないのです。

 「おられる」とは何か

 ここまで「天におられる私たちの父よ」という「主の祈り」の冒頭の言葉を噛み砕いてきて、「天」について、「父」について、「私たち」について考えてきました。そこで残るのは「おられる」という言葉です。

 日本語では「本がある」とか「人や動物がいる」と言います。私の母国語スペイン語にはser(~であること)、estar(~いること)、existir(~があること)という使い分けがあります。日本語を勉強するとき、敬語の難しさに困ります。神についてなんと言いましょうか。「いる」とか「いらっしゃる」とか「おいでになる」などの言葉がありますが、戸惑います。

 実は西洋の古代や中世時代の思想家たちは「神がおられる」ということについて人間が語りうるのだろうかという問題に悩まされました。神について「こうである」とか「ああである」とか、言っても、また「そうでない」とつけ加えなければならないのではないかと彼らは気付きました。いや、「ある」という言葉さえも適切ではないとまで言われました。

 東洋では「無」とか「空」というふうにサンスクリットのsunyataを訳して昔から大乗仏教において深い信仰が表されてきました。今ここで複雑な宗教学を展開するつもりはないのですが、『般若心経』になじんでいる人には西洋の神秘家たちが述べた『否定神学』がわかりやすいでしょう。

 とにかく、今ここで強調したいのは「天におられる父よ」というときに「おられる」という言葉が特別な意味合いを含むことです。つまり神は、決して「ここ」とか「あそこ」と指で指すことができるような形で「おられる」ということではなく、むしろすべてのものをつつみながら「どこにでもおられるから」こそ「どこにもいない」すなわち「限り」のある存在ではないと言えるわけです。

 み名が聖とされますように。

 古い訳では「御名の尊まれんことを」、と言われていました。「御名」は神に向かって「あなた」と言うことを表した言葉です。従って、「あなたが褒め称えられれますように」、「賛美されますように」。ということで「聖とされますように」は直訳で、意訳すれば、「あなただけが聖なるものとして認められ、聖なるものとして拝まれますように」ということです。 

 つまり、この句は「賛美します」、「感謝します」、「拝みます」ということが要点で、これは感謝と賛美する心、拝む心を表わしている言葉です。

 祈りには喜びの歌のようなものもあれば、嘆きの歌のようなものもあります。場合によって、それは朝の祈りと夕の祈りの雰囲気にあたるでしょう。朝、感謝と喜びと賛美の心をもって、元気に一日を始めるときには、心から「御名があがめたたえられますように」、「名が聖とされますように」と祈れるときがあるでしょう。それに対して夕方には、一日の生活の重みを背負いながら、自分の「弱さの深淵」から、「主よ、助けて下さい」、なかなか来ないように見える「御国がきますように」と嘆き祈るときもあるでしょう。

 身振りで祈りを表すことがあります。手を合わせて祈ることもあれば、開いた手を上に向けて祈ることもあります。「御名が聖とされますように」と祈るときには、どちらかと言えば手を開いて天の方へ心と体を向けるような姿勢がふさわしいようです。毎朝この賛美の心を呼び起こしたいものです。

 人間の定義にはいろいろありますが、「人間は祈る動物である」というのが、人間の最もふさわしい定義の一つではないでしょうか。後にこの「主の祈り」の中で、パンのために、ゆるしのために、そして悪から救われるために祈りますが、今こうした願いごとの祈りに先だって、賛美の祈りを唱えます。

 詩篇86(11-12)の言葉を私たちの言葉として唱え、「御名あがめられますように」という文の意味を深めたいと思います。その詩篇で、「主よ、私は昼も夜もあなたを呼び求めます。主よ、私はあなたに心を向けます」と言われています。祈るとは結局、そのことです。賛美と感謝の心をもって神のほうへ心を向けることです。

 先ほど述べたように、あるときには天を仰いで神の方へ心を向け、あるときには目を閉じて自分の内面におられる神の中へ沈んでいきます。キリストの霊は私たちのうちに生きており、働いておられます。つまり、このことに気づくことが、信仰であり、祈りなのです。信じることも、祈ることも、「気付くこと」です。いつでもどこでも神の現存に気付くことです。

 「私はいつもあなた方と一緒にいる」(マタイ28,20)というイエスの言葉が思い出されます。いつも側におられるその方と話し、その言葉に耳を傾けることは祈りです。しかし話すといっても、多くの言葉を用いる必要はありません。大切なのは、賛美する心、感謝する心、そしてとりわけ聞く心の耳です。色々なことに気を散らすことなく、沈黙のうちに神に聞く術を学びたいものです。

 悩みの中にあるときに祈りが生まれるのは当然です。しかし、順境のときにも同じように祈るようにしたいのです。そして、日常の平静な気持ちのときに、神に向かって「父よ」と信頼のこもった祈りができるようになればありがたいです。普通の時に精神を集中させて祈ることができれば、自ずと感謝の念が生じ、信じさせてくださるのは神ご自身であることに気付くでしょう。

 

 み国が来ますように。

 「御名が聖とされますように。み国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」という祈りは、すべての人が、天の父のもとで一つになるときが来ますようにという願いを表しています。ここに出て来る「天」と「地」は、先ほど述べた三つの願いにかかっているので、次のように訳すこともできます。「地でも、天におけるように御名があがめられますように。地にも、天におけるように御国がきますように。地にも天におけると同じように御心が行われますように」と。言い換えれば、「この地上が天の国になっていきますように」、という祈りです。

 それで、「主の祈り」のこの部分を簡単に、「すべての人が、すべてのものが、一つになる日がきますように」というふうに言葉を置き換えて表すことができます。

 これとは対照的に、「この世を忘れて天国を仰ごう」という歌がありますが、これでは「宗教は阿片である」と言われても仕方がないでしょう。真の宗教は麻薬であるはずがありません。私たちは今、天の国をこの世で作ろうと努力するのです。そして、いくら努力しても作りきれなくても、「いつかその日がきますように」と祈り続けるのです。

 「天の国」、「神の国」という言葉を理解するために、この言い回しを逆にしてみましょう。神の国を「国の神」としてみるのです。イスラエルでも、祖国のために戦う人々は、神が自分たちの側にいると思いこんでいたことがありました。やはり「神風」のような考え方はいろいろな文化や時代にあったのです。

 それに対してイエスの説いた神は、いわゆる「われわれの国の神」ではなく、「すべての国々の神」です。イエスは当時の狭い考え方から来る「国の神」というナショナリズムの代わりに、「神の国」を打ち出します。その国はあらゆる国境を越え、すべての垣根とへだたりを超越する広いものです。

 「御国がきますように」とは、自分と自分自身との間の壁、自分と他人との間の壁、自分と物事との間の壁、自分と神との間の壁、これらすべての壁、分け隔て、垣根がなくなりますようにということです。すべてが一つになる日がきますようにということです。

 しかし、世の中の現状をみると、そうならないのが普通です。昔から人々は理想的な世界を夢見てきました。そうした理想の国はユ-トピアと呼ばれます。それはギリシャ語の語源に由来します。トポスは場所、ユは否定。ユ-トピアはどこにもないような場所です。どこにも実現されないようなことを目指すのは一つの逃避になってしまうことにもなりかねないのですが、同時に人間は夢を持たなければ現状を変えて行くための力が湧いてこないのです。多くの宗教において天国や浄土や涅槃などといったような理想的な世界が描かれています。

 彼岸を目指して此岸を無視することが宗教の特徴だと思い込んでいる人は少なくないし、キリスト者の中にも「天の国」のことは単なる「死後の世界」の話としてしか受け止めていない信徒も遺憾ながらいます。いや、神学者の中にも、「象牙の塔」に閉じこもるせいか、そのように考えてしまう学者さえもいるのです。そうした立場で神学に携わった場合、現実世界から逃避して、社会の建設に対して無関心で、思弁だけを巡らすことに終わってしまうことも希ではないのです。

 しかし、それではイエスが教えてくださった「御国が来ますように」という祈りの意味を誤解することになります。亡くなる前夜に「この世の中にいながらこの世のものではない」(ヨハネ17,15-18)と言う言葉を弟子に言い残したイエスは、決して「この世を忘れて天国を仰ぐように」とおっしゃったのではありません。むしろ「天の国を待ち望みながら、今この世で天の国を築き上げていくように」と教えられたのです。

 「あの世」のほうに逃避すれば、信仰は阿片になってしまいます。そして、「この世」に流されてしまえば、「世の塩」(マタイ、5,13)が味を失います。そこで、「彼岸」と「此岸」の狭間で緊張感を保つ必要があるでしょう。 

  したがって、「天の国」という比喩的な言い方を、私たちはどのように受け止めたらよいのか確かめたほうがよいいでしょう。

 ここで、使徒言行録を思い出しましょう。「そこで、集まっていた使徒たちが、<主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのは、今ですか>と尋ねた」(使徒1,6)この箇所からわかるように、弟子たちはまだ、この世の権力とナショナリズムに囚われていました。ここで弟子たちは、この世からの逃避と言う誘惑に陥っています。何百年もの間、教会の中には、世俗化への傾向と厭世的な傾向という二つの極端が、度々見られました。しかしイエスが説いた天の国は、「この世にありながら、この世のものではない」という性格を帯びています。使徒1,7でイエスはユーモアをもって弟子たちに答えます。「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、お前たちの知るところではない」と。

 その後、彼らはだんだん理解し始めました。しかし時間がかかったのです。その長い過程は、使徒言行録1章から15章までの部分に表れています。開かれた共同体になかなかなりきれないという悩みが、当時の教会にすでにあったのです。神の国を理解せずに、いわば「国の神」に憧れる傾向が強く見られたのです。15章に記録されているエルサレム会議で、重大な転換が行われます。教会は公式に、諸民族へと開かれます。これからは、狭い意味での「国の神」ではなく、広い意味の「神が支配する国、神が望む兄弟姉妹の共同体」を、弟子たちが全世界に伝えて行くでしょう。

 しかし、いつの時代においても、誤った救済観(個人的・精神的・彼岸的な救いの捉え方)と誤った教会観(いわゆる「信心派」対「社会派」の対立)が見られました。歴史を振り返りますと、信仰者の共同体と、この世の権力者たちとの関係は必ずしもいつも福音に基づいたものではなかったのです。

 ときには、信仰者たちは政治や経済社会の諸問題に対してあまりにも無関心であったり、逃避や阿片と非難されても仕方がない信仰の持ち方を示しました。もちろん、福音の実践に関わり、そのために迫害を受けた時もありました。 場合によって 無批判的に権力者たちと妥協したり、利用されたりしたことがありましたし、教会のほうが権力者になってしまった場合もありました。逆に、福音に忠実であろうとして妥協することなく、社会建設のためにパン種になった場合もあります。とにかく、教会と権力者、宗教と政治、信仰者と社会問題などを考える場合、物差しとなるのは前述したイエスの言葉「あなたがたはこの世にありながらこの世の者ではない」という言葉です。この言葉に照らして 「御国が来ますように」という祈りが理解されます。つまり、イエスは「天の国」がすでに近づきつつあると言うことに気付くように私たちを目覚めさせると同時に、天の国の実現のために、この世で努めるように勧めておられるということです。

 みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。

 先に賛美と嘆きという二つの祈り方を朝の祈りと夕の祈りにたとえて、前者は「御の尊まれんことを」という祈りで、後者は「御国の来たらんことを」という祈りで表わされていると述べました。ところで、これという感激もなく、特別に嘆きもないような祈り方もあります。「御旨の行われますように」という祈りがそれです。

 それは英雄的でもなければ、悲劇的でもない信仰の持ち方とつながります。天候にたとえると、それは晴れでも大雨でもなく、曇った空に当たるかもしれません。そうしたときにこそ、真の祈り方があるのかもしれません。イエスの死を見るとき、すべてが無意味ではないかと言いたくなるかもしれません。それでもなお、神に信頼して祈るのです。運命論ではありません。神のみ心は、どのような形で行われるのか、人間には分からないのです。神のみ心は人間の理解できない形で行われるのです。

 詩篇139に次のように述べられています。

主よ、あなたは私をさぐり、

私を知り尽くされました。

あなたは私が座るのも、立つのも知り、

遠くから私の思いをわきまえられます。

あなたは私が歩むのも、伏すのも探り出し、

私の諸々の道をことごとく知っておられます。

あなたは後からも、前からも私を囲み、

私の上に御手をおかれます。

このような知識はあまりに不思議で、

私には思いも及びません。

これは高くて達することはできません。

 中国の西遊記にも仏様の手の平を飛ぶ孫悟空の話が出てきますが、神は私たちの存在の根底にあるのです。

 この神に対する信頼を失わないこと、これが信仰の中核と言えましょう。私たちには理解できない形で御心が行われているのですから、信頼していけますようにと祈るのです。

 「地にも、天にも」です。ここまでは、主の祈りの第一部です。この第一部は、「天」という語で始まり、「天」という語で終わります。これはこの地上が天になりますようにという一つの願いを表すと同時に、感謝と賛美を表します。つまりこの地上を信仰の目で見ると、そこに天が見えてきて、そこから感謝と賛美が湧いてくるのです。したがって「主の祈り」の第一部を簡単に、「天の父よ、命を感謝してあなたを賛美します」と意訳で訳し直せるのではないかと思います。

 

 わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。

 ここで初めて私たちの願いごとが出てきます。ここから「主の祈り」の第二部が始まります。願いことは感謝と賛美の後に出てくるものです。

 「パンをください」と祈るとき、私たちは身も心も生かされるように願います。食べなければ生きていけませんが、人間はパンのみで生きるのではないことを思い出しながら、今日もまた「パンをください」と言います。これを、「どうか毎日、私たちの身体と心を強め、生きる力を与えてください」と言い換えることができるでしょう。

 旧約聖書の中では、神が支配し全ての人が一つになるという神の国を理想としています。しかし、糧を得るためには何もしないで待っているのはよくありません。パウロは働かないでその糧を得ようとする人を、次のように叱っています。

 「私たちがあなたがたのところにいたとき、働きたくないものは食べてはならないとはっきり言っておいたはずです。それなのに、あなたがたの中にはけじめのない生活を送り、仕事はせず、余計なおせっかいばかりしている者がいると聞いています。主イエス・キリストに結ばれている者として、そういう人たちに命じ、勧めます。黙々と働いて、自分で稼いだパンを食べなさい」(2テサロニケ3,10-12)。

 私したちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。

 これは一番訳しにくく、誤解を招きやすいところです。言うまでもなく、ゆるしますからゆるして下さいということではありません。また、ゆるす限りゆるして下さいということでもありません。あなたからゆるされていることに感謝して、人をゆるすことができますようにという願いです。

 このように解釈し説明するために、この文章を次のように三つに分けてみるとよいでしょう。

 イ)私たちをゆるしてください、

 ロ)わたしたちも同じように人をゆるすように決心します、

 ハ)しかし、なかなかできませんのでお助けください。

 人間はだれでも悪や罪の問題に直面します。そのとき自分は正しいものではないことを率直に認め、自分は今人をゆるしていないが、神が私をゆるし大事にしてくださっているように、実際にはなかなか人をゆるせない私ですけれども、どうかゆるす力をお与えくださいと祈ってみます。

 ここで大切なことが二つあります。一つは自分が常に天の父から受け入れられており、ゆるされていることに対する感謝です。ゆるしを願うときにはまだ自分が中心にいますが、私をゆるしてくださっている方がいる、ありがたいと思うとき、中心は神のほうに移ります。他の一つは、天の父の目で私たちが人を見、人を大切にすることができますようにという祈りです。要するに人をゆるすことは、その人のために祈り、神がその人をゆるして下さるように天の父に祈ることであると同時に、その人をなかなかゆるすことのできない自分のためにも祈ることです。

 さらにもう一つの大事なポイントは、自分自身をゆるすことができますようにという祈りです。自分を嫌悪し、自分をゆるすことができないということは、私たち皆がもっている大きな弱点の一つだからです。これらのすべての根拠は、結局、信頼に値しない私たちのような人間が神によって信頼されているという、ローマ書のあの信仰態度です。

 敵を愛することができないのは、人間にとって自然のことでしょう。それでも、敵を愛する力をイエスから与えられるのです。私たちは敵をゆるすことができないでしょう。だからこそ、「御国がきますように」と祈るのです。そのとき敵をゆるす力を与えられるでしょう。自分が受け入れることのできない人でも、神から受け入れられているのです。だから、自分はその人との間にある壁が取り除かれるように祈ります。「私たちがあなたから受け入れられているように、あの人もあなたから受け入れられますように」と。

 私たちを誘惑におちいらせず、悪よりお救いください。アーメン

 罪悪のことは最後に出てきます。いろいろな宗教や一般的にも「悪事をすると罰があたる」というように、人間の悪業に対して制裁が加えられることが説かれていますが、キリスト教では罰を与える神よりも、悪の問題から私たちを救ってくださる天の父を中心にしています。

 もちろん人間の暗い側面は無視できないのです。その暗い面が主の祈りのこの第三部で扱われますが、罪や悪のことは信仰の出発点でもその中心でもありません。ゆるしと試みと悪のことが「主の祈り」の最後に出てくるという順序には、深い意味があると思われます。

 誘惑に関してここで私たちが祈るのは、ただそれに負けないようにということだけでなく、負けてもくよくよしすぎず、立ち直ることができる自信が与えられますようにということです。負けないように力をお与えください、そして負けても神に対する不信というもっと大きなあやまちに陥ることのないようにしてくださいという祈りです。

 「天の父」で始まるこの「主の祈り」は、あくまでも希望を与え、希望の根拠を認めて感謝する祈りですが、安っぽい楽観主義ではありません。色々な苦しみと悩みに出会い、さまざまの矛盾を背負いながら生きていく人間は、いろいろな形で悪の問題に直面します。自分の肉体の弱さから精神的な欠陥まで、人間嫌いの気持ちを起こさせる面倒な人間関係から人生の疲れを覚えさせる世の住み難さまで、さらに罪がなぜ存在するのかという謎まで、悪の問題に直面せざるを得ない人間は、安っぽい楽観主義に甘んじているわけにはいかないのです。

 イエスが説く希望は、悪の問題を軽く片づけるものでも、それに対して理屈っぽく出来合いの解決を伝えるものでもありません。イエスが説いたのは、悪の問題があるにもかかわらず、最終的には希望があるということです。そしてその根拠は、天の父がおられるということです。この天の父に感謝して「われらを悪より救いたまえ」と祈ります。この二つの祈り方は、切り離すことのできないものです。

 生きる力

 以上のように簡単に、「主の祈り」にある一つ一つの願いについて考えてみました。より詳細な研究は他の学者に任せて、最後に私流に繰り返したいと思います。

天にも地にも、私の中にも、すべての人のなかにも、

どこにでもおられる、いのちの源なる父よ。

われわれにいのちを与えてくださったことを感謝して祈ります。

すべての者が一つになるときがきますように。

どうか、毎日私たちの心と体を強め、生きる力をお与えください。

そして、

私たちを毎日のエゴイズムから解き放ってください。

あなたから受け入れられている

わたしたちが、

人を大事にし、互いにゆるしあって生きることができますように。

どうか私たちを悪から解き放ってください。

イエスが教えた祈り 

天と地

 これからイエスが弟子たちに教えた祈りを中心にイエスの教え(福音)を紹介したいと思います。

マタイ福音書の中にイエスが語った「山上の説教」(マタイ 5, 6,7章) がありますが、それを読むと明らかなように、イエスが説いた「天の国」(「いのちの王国」、「神が望まれる世界」、「愛と平和の国」とも置き換えられます)とは日常の中に発見されます。天の国を信じるとは、この地上に天国を発見することです。物事のうわべを越えて、その奥にある何ものかを見る目を育てることです。

さらに、天の国を信じるとは、隣の人と肩を組んで、この地上で天の国を作ろうとすることでもあります。

では、天の国を発見する目は、どのようにしたら養われるのでしょうか。この地上で天の国を築き上げる力をどこから得ることが出来るのでしょうか。その秘訣はイエスが教えてくださった「天の父」です。

今ここで、「山上の説教」で示されたイエスの教えの中核を簡単に述べて見ます。それは次の三点にまとめられます。

イ)天の父がおられること、

ロ)われわれ皆が兄弟姉妹であること、すなわち人間は皆「身内の者」になっており、「よそ者」と言える者は誰一人いないこと、

ハ)この地上で天の国を発見しながら、それを一緒に作っていくこと、の三点です。

私はこの節に「天と地」という小見出しを付けました。それは読者がイエスの教えてくださった「主の祈り」を自分の言葉に置き換え、それぞれの日常生活の中で口にし、天の父へと心を向け、日々天の国を発見する目と、天の国を築いて行く力を得られるようになることを願っているからです。

 主の祈り

ある日のこと、弟子たちがイエスに、「どのようにして祈ればよいのでしょうか。」と尋ねました。イエスは答えました。「長い時間をかける必要はない。オウム返しのように祈ることはしないで欲しい。ただ素直に天の父に心を向けなさい。例えば、次のように祈りなさい。『天におられる父よ、私たちの父よ、御名があがめられますように。み国が来ますように。み心が行われますように。地にも天にもそうでありますように。私たちに、今日もこの日の糧をお与えください。私たちの負い目をおゆるしください。私たちもそのように人々をゆるすことができますように。試みに負けないように私たちを助け、悪からお救いください』と。(マタイ6,9-13;ルカ11,2-4参照)。

この言葉は何世紀にもわたり、キリスト者の最も大事な祈りとして大切にされてきました。それは日本語で「主の祈り」、(以前は「主祷文」)と呼ばれています。

ここに載せた祈りの言葉は、実は、分かりやすく訳したものです。

次に、カトリック教会の感謝の集い「ミサ」の中で唱えられる「主の祈り」を以下にのせておきます。

天におられるわたしたちの父よ、

み名が聖とされますように。

み国が来ますように。

みこころが天に行われるとおり、

地にも行われますように。

わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。

わたしたちの罪をおゆるしください。

わたしたちも人をゆるします。

わたしたちを誘惑におちいらせず、

悪からお救いください。アーメン

この文にはもちろん難しい点もあり、初めて聞くと首をかしげるところもあるかもしれません。しかし、よく祈られているものなので、まずその祈りの言葉を用いて説明をしてから、私なりの言葉に置き換えたいと思います。短いこの祈りの一語一語には深い意味があります。それをゆっくり味わいながら、唱えるようにしたいものです。

教父アウグスティヌスは、「書物はすべて焼いてもよい。ただ『主の祈り』と、『信仰告白』さえあればよい」と言っています。またミサの中で、この祈りが「いのちのパン」をいただく前の重要な箇所で唱えられることにも注意しましょう。

 天におられる父よ

「天におられる父よ」と言うときに一体そのような呼び方をされる神はどこにおられるというのでしょうか。そしてまた、父という呼び方は何を意味するのでしょうか。まず、この二点を明らかにしましょう。

「天におられる」というのは決して、ある芸術作品に見られるような、神様が空の雲の上で羽衣の天使たちに囲まれて座っていらっしゃるということではありません。それよりもむしろ、神は私の心の中にも、「あなた」の心の中にもおられる方であり、すべてのものの中にも、いやすべてのものを包みながらどこにでもおられる方である、と言ったほうが適切でしょう。

二点目は、この祈りの初めで神のことが「天の父」と呼ばれており、ここで「神」という言葉が使われていないことにも意味があります。神のほうに心を向けて祈り始めるとき、「神よ」とではなく「天の父よ」と呼びかけるのです。そう呼ぶことによって、神のことを身近な方、近づき易い方として感じることができます。(ヘブライ語ではアッバ、スペイン語などではパパと言います。)

イエスが説く神は、漠然とした抽象的な神でもなければ、神話に出てくるような神々ともまた違います。イエスが教えてくれた神は私たちが「天の父」と呼ぶことのできる方なのです。

次に、「父」という言葉が、われわれの心にどのようなイメージを思い浮かばせるかを問わなければならないでしょう。なぜかと言えば、人が神というときに浮かんでくるイメージによって、神の捉え方も神との関わり方も変わってくるからです。

「主の祈り」で言う「天の父」は「地上のお父さん」に対して「天のお父さん」である、と字義通りに説明しても十分ではありません。また、優しい母に対比される厳しい父でもありません。それは母のイメージと父のイメージの両方を含むと同時に、創造主であるという意味も含みます。母であり、父である「天の父」は私たちを生かし、導き、受け入れ、愛してくださる方という豊かな意味を持つ言葉です。「天の父」や「天の母」と呼んでもよいし、昔風の中国語や日本語で呼ばれたように、「天主」と呼んでもよいでしょう。

ここで二つの誤解を避ける必要があります。一つ目は、父を恐ろしい存在として捉えることであり、二つ目は、母を甘えるだけの象徴として捉えることです。ここで言う父とは、人間が持っている父親と母親のイメージを含むと同時に、両方をはるかに越える父としての神、母としての神、いのちの源としての神なのです。

神がすべての人の父であるということと、神に向かって「父よ」と呼びかけることが出来ることは、イエスが教えてくださったことです。この意味で私たちが神に向かって「父よ」と呼びかけるとき、私たちはイエスと共に、イエスによって、イエスのうちにあって、「父よ」と言います。言い換えれば、私たちの側におられるイエスと共に神を求め、私たちの前に道を歩まれたイエスによって神のほうに歩み続け、私たちのうちにおられるイエスと一致して、神に向かって「父よ」と祈るのです。

そして、私たちはこの祈りを、ある時には天を仰ぎながら唱え、ある時には目を閉じて唱えます。天を仰ぐときには、すべてを越える方としての神に心を向け、目を閉じるときには、自分と、万物の根底におられる方としての神に心を向けていると言えるのではないでしょうか。

以上のことから、この祈りを決して美化された甘美なものとしてとらえてはならないことがわかります。むしろ、私たちの日常生活に密着した祈りになりうるのです。日常生活の中には明るいときもあれば暗い時もあり、またこれという明るさも暗さもない単調な日々もあるのです。そこで、あかるい時に感謝し、つらいときに助けを求め、そして、起伏のない平坦な日々の、これという喜びも苦しみもないときにも、私たちは天の父によって生かされていることに気づくと、日常生活の中で湧き上がる祈り方ができるようになります。

もちろん嬉しい時には、何でも自分の力によってできると思わないようにしたいでしょう。また悲しい時には、神に向かって率直に、「父よ、どうしてこういう時に限って、こういうことがあるのでしょうか」と祈ってもよいのです。こういった日常生活の中で、信頼と感謝のこもった祈りを唱えるように心がけるためには「主の祈り」が大きな助けとなります。

とにかくここで強調したいのは、神が父であることについて話すということよりも、父としての神に祈れるということのほうが、大事であるということです。神を父として見出し始めた者は、神を探し求めながら、「父よ」と祈り続けます。

ここで「見出しはじめた」とか「探し求める」とか「祈り続ける」とかいうような言い回しを意図的に使いましたが、私たちは神を見たから祈るのではありません。逆に、神のほうから見られていると信じながら、なかなか知り尽くすことのできない神に近付こうとするのです。言い換えれば、私たちは神を理解し尽くしてから祈るのではなく、いずれ分かるようにと願い、イエスが教えてくださった神が、とにかく近付きがたい神ではないと信じて、「父よ」と呼んで、探し続けるのです。

そのために、「主の祈り」の中で「神」という言葉が出て来ないということに気を付けたいのです。先ほど強調したように、私たちの祈りの対象は、漠然とした神でも、単なる抽象的な絶対者だけでもありません。また、神話の中に出てくる神々のような者でもなく、「父」(お父さん、お母さん)と呼ばれる方なのです。

では、ここで聖書の言葉を読みましょう。

「あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であるならば、神によって定められた相続人でもあります」(ガラテヤ書4,7)。

「このキリストに結ばれた私たちは、キリストを信じることによって、臆することなく、確信をもって歩みを進めることができるのです」(エペソ書 3,12)。

またヨハネ福音書(1,18)で述べられているように、神を見たものは誰もいません。信仰者とは、神を見た人々ではなく、天の父の懐におられるイエスが神のことを説き明かしたイエスの言葉を信じ、その言葉に導かれて、神を探し求め続けている人々だと言えます。

要するに、信じるということは、この真実に目覚めたり、気付いたりすることであり、神の呼びかけに対して「聞く耳」を持ち始めることです。あるいは聖書で言われているように、肉眼では見えないことを心の目で見ることができるようになるということです。

もうひとつ、エペソ書(1,18-19)の言葉を思い出しましょう。

「あなたがたの心の目が照らされて、神の招きに伴う希望がどのようなものであるかをあなたがたが知ることができるように祈っています」。

聖書では「聞く耳」をもつことはとても大切にされています。最近、電車の中で、携帯電話で話したりヘッド・フォンで音楽を聞いたりしている人々の姿をよく見かけます。その人々は、周囲の雑音で聞きづらいことも多いでしょう。私たちも日常生活の中の雑音に戸惑わされて、天の父に耳を傾けることのできないときがあります。もしかすると、神に耳を傾けられない人は、人々の言うことも聞いていなのかもしれません。あるいは、その逆に神の言葉に耳を傾けて、はじめて人々の言うことが聞けるようになることもあるでしょう。

母親は子供が泣く前に目を覚ますことがあり、相当な聞く能力を持っています。私たちは神の言葉を聞く能力を失いかけているかもしれないのですが、それを取り戻す必要があるでしょう。

無邪気な子供の目は、母親の顔を映し、天を映し、いわば神の顔を映しています。成長して行くにつれて、鏡のようなその目が曇ってきます。私たちはあるときには背伸びをし、あるときには自己卑下をします。あるときにはすきを見せまいとして自己防衛の鎧を身につけ、人間関係の中で身がまえます。あるときには優越感に浸り、あるときには劣等感を抱きます。あるときには自分について人が何を考えているかを気にし、あるときには特定の印象を与えようとして気を遣います。

しかし、天の父は、私たちのありのままを見ておられます。天の父のみ前にいる私たちは、自分をありのままに位置づけられていますから、ありのままの自分を見ることができるようになります。

ですから、天の父のみ前で祈るとき、各自の年齢とその人が置かれている状況に相応しい祈りが湧き起こってくるのです。なぜなら、天の父のみ前では、背伸びすることも自己卑下することも必要ではないからです。

そして不思議なことに、わたしたちを一番ありのままに見ておられる天の父が、わたしたちを一番受け入れてくださっているのです。

 天におられる。

先に述べたように、この言葉の「天」は雲の上ではなく、神がすべてを満たすものであることを表します。夜になると、地上のあらゆるところから同じ星を見ることができるのと同様に、「天」というイメージは、神がどこにでもおられるということと、私たちにとって神は知り尽くすことのできない方であるということを表しています。

神が天におられるということは、裏返して言えば、神がおられるところ、どこでもが天になっているということです。

したがって、神を求めて遠い天国へと旅立つ必要はありません。なぜなら、今、ここに神がおられ、天国はここにもあるからです。聖アウグスティヌスも「自分は長いあいだ神を探し求めてきたが、神は自分に一番近い所におられることにやっと気がついた」と言うのです。

素朴な見方をすれば、天は空の雲の上になります。神を信じないと言っていた宇宙飛行士は、「こんなに上まで飛んで来ても神なんか見当らない」と言ったそうです。それとは対照的に、もう一人の宇宙飛行士は神を信じていたので、空の上から星空を観察しながら神を賛美していたそうです。しかし、最も印象深かったのは三人目の宇宙飛行士の話でした。彼は遠くから地球を眺め、広大な星空に圧倒されて、ふと思ったそうです。「ここまで昇って来て、神様はどこにおられるのだろうかと思ったが、そのとき自分のそばで居眠りをしているもう一人の宇宙飛行士の鼾を聞き、急にそこに神がおられることに気づいた」と言っているのです。

またチベットの熊の譬え話もあります。熊はあるとき、何か、いい香りがするのに気付き、それがどこから流れて来るのか、あたりを捜し回りますが、見当たりません。ある日のこと、山の中を駆け回って、イバラで胸を傷つけ、治そうとして胸をなめた熊は、その香りがその傷のところから出ているのに気付きました。香りは、自分に一番近い所から出ていたのです。(熊の胸部には、芳香のある油袋があるらしい)。

神は、多くの人が気付かずにいるところに、人間に一番近いところにおられるのです。このことを実感しながら「天におられる父よ」と祈りたいのです。

私たちの父よ

この祈りの言葉の呼びかけが複数であることを見逃さないようにしましょう。「私の父よ」とではなく、「私たちの父よ」と祈ります。私たちは天の父がいると信じている人々の中に身を置いてこの祈りを唱えるのであって、この祈りを個人的な祈りに終わらせてしまわないように注意しましょう。

さらに、「私たち」とは、決して信仰者のことだけを指しているのではなく、兄弟姉妹であるすべての人々を指す人類共同体のことです。天の父がおられることを聞いたことのない人々もみな私たちの兄弟姉妹であることを思い、すべての人のことを天の父に任せて祈りましょう。

また前述のように、この祈りにおける「父」とは、父親と母親の両方のイメージをもっていますので、この「父」という言葉は父親と母親の優れた点を象徴し、私たちの考えがちな狭い意味での父や母を遙かに越える方を指す言葉として使われています。この父は、恐るべき厳しい父でもなければ、甘やかすだけの母でもありません。いや、むしろすべての源であり、誠の愛の泉であり、全ての兄弟姉妹を一つに結びつけることを望む方なのです。

そして、天の父はなかなか兄弟姉妹として一つになれない私たちをそうなるように助けてくださる方です。というのは、天の父は私たちを弱さから解放するだけでなく、私たちの「強さを強さたらしめる」方だからです。

聖書では古来「神は神を信じる正しい人たちの父」と言われてきました。また、私たちの父であるとイエスが教えてくださった神は、マタイ5,45で言われているように、善人の上にも悪人の上にも雨を降らせ、太陽の日差しを送ってくださる方です。

そのような神に向かって私たちは、恐れの気持ちからではなく、子供のような信頼をもって、「父よ」と祈るのです。「あなたがたは、人を再び恐れにおちいらせ、奴隷とする霊を受けたのではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって、私たちは『アッバ、父よ』と叫ぶのです」(ローマ書8,15)。それで、私たちはイエスと声を合わせて、この祈りを唱えるのです。

イエスは厳密な意味での神の子として「父よ」と言われますが、私たちはイエスと一致して始めて、父なる神に向かって「父よ」と言えるのです。このように祈ると、私たちの祈りはイエスの祈りの「こだま」となります。父に向かって「私たちの父よ」と祈る私たちは、互いに兄弟姉妹です。

ここでマタイ23,9の言葉を思い出しましょう。「あなたたちは、地上で何者をも〈父〉と呼ぶな。あなたたちの父はただ一人、天の父のみだからです」。

ここまで進んだ時点で、ヨハネ第一の手紙の初めのことばを思い浮かべたいのです。その言葉も、キリスト者の信仰を一人称の複数で表しています。

「はじめからあったもの、

また、私たちが聞き、

目で見、見つめ、

手でふれたいのちのことばについて、

あなたがたに伝えます。

いのちは現れました。

私たちは永遠のいのちを見ました。

それをあなたがたに証し、伝えます。

このいのちは「父なる神」とともにあり、

私たちに現れました。

私たちが見たこと、聞いたことを

あなたがたにも伝えるのは、

あなたがたも私たちと、

交わりを持つようになるためです。

私たちの交わりとは、私たちが、

父とその子イエス・キリストと交わることです」(1ヨハネ1,1-3)

この聖書の言葉の中で「父」とは、

イ)いのちを与える方、

ロ)私たちを導いて来られた方、

ハ)今、私たちを支え、受け入れてくださる方、絶対に信頼できる方です。母親がたとえ子を忘れたとしても、神が私たちを忘れることはありえないのです。

「おられる」とは何か

 ここまで「天におられる私たちの父よ」という「主の祈り」の冒頭の言葉を噛み砕いてきて、「天」について、「父」について、「私たち」について考えてきました。そこで残るのは「おられる」という言葉です。

日本語では「本がある」とか「人や動物がいる」と言います。私の母国語スペイン語にはser(~であること)、estar(~いること)、existir(~があること)という使い分けがあります。日本語を勉強するとき、敬語の難しさに困ります。神についてなんと言いましょうか。「いる」とか「いらっしゃる」とか「おいでになる」などの言葉がありますが、戸惑います。

実は西洋の古代や中世時代の思想家たちは「神がおられる」ということについて人間が語りうるのだろうかという問題に悩まされました。神について「こうである」とか「ああである」とか、言っても、また「そうでない」とつけ加えなければならないのではないかと彼らは気付きました。いや、「ある」という言葉さえも適切ではないとまで言われました。

東洋では「無」とか「空」というふうにサンスクリットのsunyataを訳して昔から大乗仏教において深い信仰が表されてきました。今ここで複雑な宗教学を展開するつもりはないのですが、『般若心経』になじんでいる人には西洋の神秘家たちが述べた『否定神学』がわかりやすいでしょう。

とにかく、今ここで強調したいのは「天におられる父よ」というときに「おられる」という言葉が特別な意味合いを含むことです。つまり神は、決して「ここ」とか「あそこ」と指で指すことができるような形で「おられる」ということではなく、むしろすべてのものをつつみながら「どこにでもおられるから」こそ「どこにもいない」すなわち「限り」のある存在ではないと言えるわけです。

み名が聖とされますように。

古い訳では「御名の尊まれんことを」、と言われていました。「御名」は神に向かって「あなた」と言うことを表した言葉です。従って、「あなたが褒め称えられれますように」、「賛美されますように」。ということで「聖とされますように」は直訳で、意訳すれば、「あなただけが聖なるものとして認められ、聖なるものとして拝まれますように」ということです。

つまり、この句は「賛美します」、「感謝します」、「拝みます」ということが要点で、これは感謝と賛美する心、拝む心を表わしている言葉です。

祈りには喜びの歌のようなものもあれば、嘆きの歌のようなものもあります。場合によって、それは朝の祈りと夕の祈りの雰囲気にあたるでしょう。朝、感謝と喜びと賛美の心をもって、元気に一日を始めるときには、心から「御名があがめたたえられますように」、「名が聖とされますように」と祈れるときがあるでしょう。それに対して夕方には、一日の生活の重みを背負いながら、自分の「弱さの深淵」から、「主よ、助けて下さい」、なかなか来ないように見える「御国がきますように」と嘆き祈るときもあるでしょう。

身振りで祈りを表すことがあります。手を合わせて祈ることもあれば、開いた手を上に向けて祈ることもあります。「御名が聖とされますように」と祈るときには、どちらかと言えば手を開いて天の方へ心と体を向けるような姿勢がふさわしいようです。毎朝この賛美の心を呼び起こしたいものです。

人間の定義にはいろいろありますが、「人間は祈る動物である」というのが、人間の最もふさわしい定義の一つではないでしょうか。後にこの「主の祈り」の中で、パンのために、ゆるしのために、そして悪から救われるために祈りますが、今こうした願いごとの祈りに先だって、賛美の祈りを唱えます。

詩篇86(11-12)の言葉を私たちの言葉として唱え、「御名あがめられますように」という文の意味を深めたいと思います。その詩篇で、「主よ、私は昼も夜もあなたを呼び求めます。主よ、私はあなたに心を向けます」と言われています。祈るとは結局、そのことです。賛美と感謝の心をもって神のほうへ心を向けることです。

先ほど述べたように、あるときには天を仰いで神の方へ心を向け、あるときには目を閉じて自分の内面におられる神の中へ沈んでいきます。キリストの霊は私たちのうちに生きており、働いておられます。つまり、このことに気づくことが、信仰であり、祈りなのです。信じることも、祈ることも、「気付くこと」です。いつでもどこでも神の現存に気付くことです。

「私はいつもあなた方と一緒にいる」(マタイ28,20)というイエスの言葉が思い出されます。いつも側におられるその方と話し、その言葉に耳を傾けることは祈りです。しかし話すといっても、多くの言葉を用いる必要はありません。大切なのは、賛美する心、感謝する心、そしてとりわけ聞く心の耳です。色々なことに気を散らすことなく、沈黙のうちに神に聞く術を学びたいものです。

悩みの中にあるときに祈りが生まれるのは当然です。しかし、順境のときにも同じように祈るようにしたいのです。そして、日常の平静な気持ちのときに、神に向かって「父よ」と信頼のこもった祈りができるようになればありがたいです。普通の時に精神を集中させて祈ることができれば、自ずと感謝の念が生じ、信じさせてくださるのは神ご自身であることに気付くでしょう。

 み国が来ますように。

「御名が聖とされますように。み国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」という祈りは、すべての人が、天の父のもとで一つになるときが来ますようにという願いを表しています。ここに出て来る「天」と「地」は、先ほど述べた三つの願いにかかっているので、次のように訳すこともできます。「地でも、天におけるように御名があがめられますように。地にも、天におけるように御国がきますように。地にも天におけると同じように御心が行われますように」と。言い換えれば、「この地上が天の国になっていきますように」、という祈りです。

それで、「主の祈り」のこの部分を簡単に、「すべての人が、すべてのものが、一つになる日がきますように」というふうに言葉を置き換えて表すことができます。

これとは対照的に、「この世を忘れて天国を仰ごう」という歌がありますが、これでは「宗教は阿片である」と言われても仕方がないでしょう。真の宗教は麻薬であるはずがありません。私たちは今、天の国をこの世で作ろうと努力するのです。そして、いくら努力しても作りきれなくても、「いつかその日がきますように」と祈り続けるのです。

「天の国」、「神の国」という言葉を理解するために、この言い回しを逆にしてみましょう。神の国を「国の神」としてみるのです。イスラエルでも、祖国のために戦う人々は、神が自分たちの側にいると思いこんでいたことがありました。やはり「神風」のような考え方はいろいろな文化や時代にあったのです。

それに対してイエスの説いた神は、いわゆる「われわれの国の神」ではなく、「すべての国々の神」です。イエスは当時の狭い考え方から来る「国の神」というナショナリズムの代わりに、「神の国」を打ち出します。その国はあらゆる国境を越え、すべての垣根とへだたりを超越する広いものです。

「御国がきますように」とは、自分と自分自身との間の壁、自分と他人との間の壁、自分と物事との間の壁、自分と神との間の壁、これらすべての壁、分け隔て、垣根がなくなりますようにということです。すべてが一つになる日がきますようにということです。

しかし、世の中の現状をみると、そうならないのが普通です。昔から人々は理想的な世界を夢見てきました。そうした理想の国はユ-トピアと呼ばれます。それはギリシャ語の語源に由来します。トポスは場所、ユは否定。ユ-トピアはどこにもないような場所です。どこにも実現されないようなことを目指すのは一つの逃避になってしまうことにもなりかねないのですが、同時に人間は夢を持たなければ現状を変えて行くための力が湧いてこないのです。多くの宗教において天国や浄土や涅槃などといったような理想的な世界が描かれています。

彼岸を目指して此岸を無視することが宗教の特徴だと思い込んでいる人は少なくないし、キリスト者の中にも「天の国」のことは単なる「死後の世界」の話としてしか受け止めていない信徒も遺憾ながらいます。いや、神学者の中にも、「象牙の塔」に閉じこもるせいか、そのように考えてしまう学者さえもいるのです。そうした立場で神学に携わった場合、現実世界から逃避して、社会の建設に対して無関心で、思弁だけを巡らすことに終わってしまうことも希ではないのです。

しかし、それではイエスが教えてくださった「御国が来ますように」という祈りの意味を誤解することになります。亡くなる前夜に「この世の中にいながらこの世のものではない」(ヨハネ17,15-18)と言う言葉を弟子に言い残したイエスは、決して「この世を忘れて天国を仰ぐように」とおっしゃったのではありません。むしろ「天の国を待ち望みながら、今この世で天の国を築き上げていくように」と教えられたのです。

「あの世」のほうに逃避すれば、信仰は阿片になってしまいます。そして、「この世」に流されてしまえば、「世の塩」(マタイ、5,13)が味を失います。そこで、「彼岸」と「此岸」の狭間で緊張感を保つ必要があるでしょう。

 したがって、「天の国」という比喩的な言い方を、私たちはどのように受け止めたらよいのか確かめたほうがよいいでしょう。

ここで、使徒言行録を思い出しましょう。「そこで、集まっていた使徒たちが、<主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのは、今ですか>と尋ねた」(使徒1,6)この箇所からわかるように、弟子たちはまだ、この世の権力とナショナリズムに囚われていました。ここで弟子たちは、この世からの逃避と言う誘惑に陥っています。何百年もの間、教会の中には、世俗化への傾向と厭世的な傾向という二つの極端が、度々見られました。しかしイエスが説いた天の国は、「この世にありながら、この世のものではない」という性格を帯びています。使徒1,7でイエスはユーモアをもって弟子たちに答えます。「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、お前たちの知るところではない」と。

その後、彼らはだんだん理解し始めました。しかし時間がかかったのです。その長い過程は、使徒言行録1章から15章までの部分に表れています。開かれた共同体になかなかなりきれないという悩みが、当時の教会にすでにあったのです。神の国を理解せずに、いわば「国の神」に憧れる傾向が強く見られたのです。15章に記録されているエルサレム会議で、重大な転換が行われます。教会は公式に、諸民族へと開かれます。これからは、狭い意味での「国の神」ではなく、広い意味の「神が支配する国、神が望む兄弟姉妹の共同体」を、弟子たちが全世界に伝えて行くでしょう。

しかし、いつの時代においても、誤った救済観(個人的・精神的・彼岸的な救いの捉え方)と誤った教会観(いわゆる「信心派」対「社会派」の対立)が見られました。歴史を振り返りますと、信仰者の共同体と、この世の権力者たちとの関係は必ずしもいつも福音に基づいたものではなかったのです。

ときには、信仰者たちは政治や経済社会の諸問題に対してあまりにも無関心であったり、逃避や阿片と非難されても仕方がない信仰の持ち方を示しました。もちろん、福音の実践に関わり、そのために迫害を受けた時もありました。 場合によって 無批判的に権力者たちと妥協したり、利用されたりしたことがありましたし、教会のほうが権力者になってしまった場合もありました。逆に、福音に忠実であろうとして妥協することなく、社会建設のためにパン種になった場合もあります。とにかく、教会と権力者、宗教と政治、信仰者と社会問題などを考える場合、物差しとなるのは前述したイエスの言葉「あなたがたはこの世にありながらこの世の者ではない」という言葉です。この言葉に照らして 「御国が来ますように」という祈りが理解されます。つまり、イエスは「天の国」がすでに近づきつつあると言うことに気付くように私たちを目覚めさせると同時に、天の国の実現のために、この世で努めるように勧めておられるということです。

みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。

先に賛美と嘆きという二つの祈り方を朝の祈りと夕の祈りにたとえて、前者は「御の尊まれんことを」という祈りで、後者は「御国の来たらんことを」という祈りで表わされていると述べました。ところで、これという感激もなく、特別に嘆きもないような祈り方もあります。「御旨の行われますように」という祈りがそれです。

それは英雄的でもなければ、悲劇的でもない信仰の持ち方とつながります。天候にたとえると、それは晴れでも大雨でもなく、曇った空に当たるかもしれません。そうしたときにこそ、真の祈り方があるのかもしれません。イエスの死を見るとき、すべてが無意味ではないかと言いたくなるかもしれません。それでもなお、神に信頼して祈るのです。運命論ではありません。神のみ心は、どのような形で行われるのか、人間には分からないのです。神のみ心は人間の理解できない形で行われるのです。

詩篇139に次のように述べられています。

主よ、あなたは私をさぐり、

私を知り尽くされました。

あなたは私が座るのも、立つのも知り、

遠くから私の思いをわきまえられます。

あなたは私が歩むのも、伏すのも探り出し、

私の諸々の道をことごとく知っておられます。

あなたは後からも、前からも私を囲み、

私の上に御手をおかれます。

このような知識はあまりに不思議で、

私には思いも及びません。

これは高くて達することはできません。

中国の西遊記にも仏様の手の平を飛ぶ孫悟空の話が出てきますが、神は私たちの存在の根底にあるのです。

この神に対する信頼を失わないこと、これが信仰の中核と言えましょう。私たちには理解できない形で御心が行われているのですから、信頼していけますようにと祈るのです。

「地にも、天にも」です。ここまでは、主の祈りの第一部です。この第一部は、「天」という語で始まり、「天」という語で終わります。これはこの地上が天になりますようにという一つの願いを表すと同時に、感謝と賛美を表します。つまりこの地上を信仰の目で見ると、そこに天が見えてきて、そこから感謝と賛美が湧いてくるのです。したがって「主の祈り」の第一部を簡単に、「天の父よ、命を感謝してあなたを賛美します」と意訳で訳し直せるのではないかと思います。

わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。

ここで初めて私たちの願いごとが出てきます。ここから「主の祈り」の第二部が始まります。願いことは感謝と賛美の後に出てくるものです。

「パンをください」と祈るとき、私たちは身も心も生かされるように願います。食べなければ生きていけませんが、人間はパンのみで生きるのではないことを思い出しながら、今日もまた「パンをください」と言います。これを、「どうか毎日、私たちの身体と心を強め、生きる力を与えてください」と言い換えることができるでしょう。

旧約聖書の中では、神が支配し全ての人が一つになるという神の国を理想としています。しかし、糧を得るためには何もしないで待っているのはよくありません。パウロは働かないでその糧を得ようとする人を、次のように叱っています。

「私たちがあなたがたのところにいたとき、働きたくないものは食べてはならないとはっきり言っておいたはずです。それなのに、あなたがたの中にはけじめのない生活を送り、仕事はせず、余計なおせっかいばかりしている者がいると聞いています。主イエス・キリストに結ばれている者として、そういう人たちに命じ、勧めます。黙々と働いて、自分で稼いだパンを食べなさい」(2テサロニケ3,10-12)。

私したちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。

これは一番訳しにくく、誤解を招きやすいところです。言うまでもなく、ゆるしますからゆるして下さいということではありません。また、ゆるす限りゆるして下さいということでもありません。あなたからゆるされていることに感謝して、人をゆるすことができますようにという願いです。

このように解釈し説明するために、この文章を次のように三つに分けてみるとよいでしょう。

イ)私たちをゆるしてください、

ロ)わたしたちも同じように人をゆるすように決心します、

ハ)しかし、なかなかできませんのでお助けください。

人間はだれでも悪や罪の問題に直面します。そのとき自分は正しいものではないことを率直に認め、自分は今人をゆるしていないが、神が私をゆるし大事にしてくださっているように、実際にはなかなか人をゆるせない私ですけれども、どうかゆるす力をお与えくださいと祈ってみます。

ここで大切なことが二つあります。一つは自分が常に天の父から受け入れられており、ゆるされていることに対する感謝です。ゆるしを願うときにはまだ自分が中心にいますが、私をゆるしてくださっている方がいる、ありがたいと思うとき、中心は神のほうに移ります。他の一つは、天の父の目で私たちが人を見、人を大切にすることができますようにという祈りです。要するに人をゆるすことは、その人のために祈り、神がその人をゆるして下さるように天の父に祈ることであると同時に、その人をなかなかゆるすことのできない自分のためにも祈ることです。

さらにもう一つの大事なポイントは、自分自身をゆるすことができますようにという祈りです。自分を嫌悪し、自分をゆるすことができないということは、私たち皆がもっている大きな弱点の一つだからです。これらのすべての根拠は、結局、信頼に値しない私たちのような人間が神によって信頼されているという、ローマ書のあの信仰態度です。

敵を愛することができないのは、人間にとって自然のことでしょう。それでも、敵を愛する力をイエスから与えられるのです。私たちは敵をゆるすことができないでしょう。だからこそ、「御国がきますように」と祈るのです。そのとき敵をゆるす力を与えられるでしょう。自分が受け入れることのできない人でも、神から受け入れられているのです。だから、自分はその人との間にある壁が取り除かれるように祈ります。「私たちがあなたから受け入れられているように、あの人もあなたから受け入れられますように」と。

 私たちを誘惑におちいらせず、悪よりお救いください。アーメン

罪悪のことは最後に出てきます。いろいろな宗教や一般的にも「悪事をすると罰があたる」というように、人間の悪業に対して制裁が加えられることが説かれていますが、キリスト教では罰を与える神よりも、悪の問題から私たちを救ってくださる天の父を中心にしています。

もちろん人間の暗い側面は無視できないのです。その暗い面が主の祈りのこの第三部で扱われますが、罪や悪のことは信仰の出発点でもその中心でもありません。ゆるしと試みと悪のことが「主の祈り」の最後に出てくるという順序には、深い意味があると思われます。

誘惑に関してここで私たちが祈るのは、ただそれに負けないようにということだけでなく、負けてもくよくよしすぎず、立ち直ることができる自信が与えられますようにということです。負けないように力をお与えください、そして負けても神に対する不信というもっと大きなあやまちに陥ることのないようにしてくださいという祈りです。

「天の父」で始まるこの「主の祈り」は、あくまでも希望を与え、希望の根拠を認めて感謝する祈りですが、安っぽい楽観主義ではありません。色々な苦しみと悩みに出会い、さまざまの矛盾を背負いながら生きていく人間は、いろいろな形で悪の問題に直面します。自分の肉体の弱さから精神的な欠陥まで、人間嫌いの気持ちを起こさせる面倒な人間関係から人生の疲れを覚えさせる世の住み難さまで、さらに罪がなぜ存在するのかという謎まで、悪の問題に直面せざるを得ない人間は、安っぽい楽観主義に甘んじているわけにはいかないのです。

イエスが説く希望は、悪の問題を軽く片づけるものでも、それに対して理屈っぽく出来合いの解決を伝えるものでもありません。イエスが説いたのは、悪の問題があるにもかかわらず、最終的には希望があるということです。そしてその根拠は、天の父がおられるということです。この天の父に感謝して「われらを悪より救いたまえ」と祈ります。この二つの祈り方は、切り離すことのできないものです。

生きる力

以上のように簡単に、「主の祈り」にある一つ一つの願いについて考えてみました。より詳細な研究は他の学者に任せて、最後に私流に繰り返したいと思います。

天にも地にも、私の中にも、すべての人のなかにも、

どこにでもおられる、いのちの源なる父よ。

われわれにいのちを与えてくださったことを感謝して祈ります。

すべての者が一つになるときがきますように。

どうか、毎日私たちの心と体を強め、生きる力をお与えください。

そして、

私たちを毎日のエゴイズムから解き放ってください。

あなたから受け入れられている

わたしたちが、

人を大事にし、互いにゆるしあって生きることができますように。

どうか私たちを悪から解き放ってください。