平和と親愛

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平和の建設と社会的な親愛

教皇フランシスコの提言『人類は皆、兄弟姉妹』Fratelli tutti

ホアン・マシア(上智大学元教授)

はじめに

教皇フランシスコが著した回勅『Fratelli tutti』(兄弟姉妹のみなさん)をご紹介したい。分断と葛藤・対立のあるところに一致と平和をもたらそうとしているこの宗教指導者の提言において、四つのキーワードが注目される。つまり、「人類は、皆、兄弟姉妹」、「社会的な親愛」、「創造的な対話」、「祈りながらの赦し合い」である。

教皇フランシスコは聖フランシスコ(1181~1226年)の記念日(2020年10月4日)に、アッシジ(Asís)の聖堂で署名してこの回勅を世に出したが、聖フランシスコの精神を受け継いで、教皇は冒頭からこう主張する。「相手はどこで生まれ、どこで生活しているかに関係なく、物理的な近さに関係なく、一人ひとりを認め、かけがえのないその人の存在を大切にしたい」 (『人類はみな兄弟姉妹』〈イタリア語で、Fratelli tutti〉序文1項。以下は「同上、何々項」と文中に略して引用する。引用文の邦訳は筆者の責任)。

序文の中で次の言葉が注目される。「私がこの回勅を準備している間に、新型コロナウイルスの大感染が突如、発生し、安全が見せかけであることが暴露された。この危機に対して、私たちが、インターネットによって結ばれてはいるのに、私たち全員に影響を与える問題を解決することを、より困難にする断片化された世界を目の当たりにしている……。私が強く希望するのは、この私たちの時代に、一人ひとりの尊厳を認めることによって、親愛への普遍的な願望の再生に貢献できることである」(同上8項)。

教皇はこうした呼びかけを行うに当たって、自分の信念や自分の教団の立場だけでそれを訴えるのではなく、「他の二つの声」と心を合わせて語りたいと言う。その二つの声というと、⑴一つは、諸宗教の声であり、⑵今一つは、世界人民の精神をもつ人々、人類はみな兄弟姉妹であるという普遍的な価値観をもち、「善意のある人々の声」である。

したがって世界平和をもとめて発言するとき、教皇フランシスコ(以下に敬語を略してフランシスコと呼ぶ)はその二つの視点を念頭に置いて社会に呼びかける。つまり、⑴宗教者の立場と、⑵宗教や文化の違いを超えて、生命尊重・人間の尊厳・平和の建設を求める立場とを両立させたいのである。

フランシスコは平和な世界を造るために、家族の中で育つような「兄弟[Wシ1] 姉妹の絆(スペイン語で、hermandad)で人々を結びつけ、社会的な親愛(amistad social)によって公共制度や政治・経済活動が人類全体の共同善(bien común)のために生かされることを目指している。「わたしはこの文書を自分の信仰の確信にもとづいて書いたが、善意のすべての人々の間の対話へ招きとなるよう努めた」と言っている(同上6)。

この回勅は、教会公文書でありながら信徒宛てだけではなく、善意のあるすべての人に宛てられている。というよりも、その人々とともに声をあわせて発言したいとフランシスコは主張している。

回勅のテーマはWCRP平和研究の理念と課題と相通ずるように思われる。WCRPでは、世界平和を求めて発言するとき、まさに前述した二つの視点を念頭に置いて社会に呼びかける伝統がある。つまり、宗教者の立場からと、宗教や文化の違いを超えて、生命尊重・人間の尊厳・平和の建設を求める立場に立って、両者の視点から社会に向かって発言するわけである。したがって「善意の人々」とともに語るフランシスコの言葉に共鳴する点は多くあるのではないかと思う。

2015年に著された回勅『神への賛美と自然環境の保護』 (イタリア語で、Laudato Si)において、痛む地球と痛むすべての被害者の人々と声を合わせて、フランシスコは環境保護と社会正義について語ったのだが、その主張の延長になる今回(2020年)の回勅では、親愛によって個人と社会の傷、および地球環境の傷も、同時に癒やさなければならないと訴えている。

 フランシスコが、前述したアッシジの聖フランシスコから言葉を借りて選んだタイトルは、『Fratelli tutti』すなわち『兄弟姉妹の皆さん』である。そして諸宗教とともに人類の一致と世界平和を呼びかけるためには、イスラムの大イマンと一緒にした発言をこの回勅の中で取り入れた。2019年2月12日に、アラブ首長国連邦において、400人を超える宗教指導者が出席した会合で、教皇フランシスコとアル=アズハルのグランド・イマーム、アフマド・アル・タイーブ師(Ahmad Al Tayyeb)がともに署名した「アブダビ宣言」(Abu Dhabi首都で発生)が発表されていた。その発言の大部分はそのまま今回の回勅の中で引用されている(同上8章285項)。このように他宗教の指導者とともに発言することは、教会の公文書として初めてのことである。

 なお、この回勅の背景にパンデミックの問題があることも念頭に置いておきたい。フランシスコはこう言う。「このパンデミックは、わたしがこの文書を準備している最中に、思いがけない形で飛び込んできた……この感染症による世界的な危機は、〈誰も一人で自分を救えない〉こと、そして〈わたしたち皆が兄弟姉妹としてただ一つの人類として夢見るべきとき〉が来たことを示している」(同上7~8項)。

 閉じられた世界の暗闇

 葛藤・対立と絶望が多い現代世界の中で、分断のあるところに一致と未来への希望をもたらしたいフランシスコは、回勅の第1章の中で、閉じられた世界の影に光をもたらし、引き裂かれた世界の分裂の傷を癒さなければならないので「普遍的な親愛の実践をさまたげる傾向を考察したい」と言う(同上9)。

回勅は現代世界の影と光、不安と希望を披露するが、この章の大部分では影と矛盾、分裂と争い、排除と差別を乗り越える必要性にあてられており、現代世界の危機について診断が行われ、その多くの歪みが指摘されている。中でも、「分け隔てや壁」および「抑圧や差別」が注目されている(同上27~28)。 たとえば、民主主義と自由および正義の理念の変質、共同善への無関心、個人主義的な利益追求、失業者を増やす市場の論理の支配、弱者切り捨てと差別の傾向、国と国の間の堺争い、狭い国家主義、奴隷化状況を生み出す人身取引、民族主義によって引き起こされる種々の分裂や葛藤・対立……。一言で言えば、人間の尊厳と人権尊重を無視する現状を見つめてその問題とかかわる緊急性が指摘されていることである。

「世界に門戸を開こうとよく言われているけれども、そのような錦の旗の背後に金銭的な利害関係が隠されており、大国の経済力にとって都合よく市場の自由が採用され、外国の利益に対して独占的に利用される。そして共同善が無視され、単一の文化モデルを課そうとする世界経済によって地域紛争が悪用されることになる。このような文化は世界を統合しようとはするが、人々と国々の間に分け隔てを増やすことになる。社会は、グローバル化するにつれて、人々を〈隣人〉にするように見えるかもしれないが、私たちを本来の隣人すなわち〈皆兄弟姉妹〉にはしないのである」(同上12)

このように圧倒されるぐらい描かれている世界の現状では暗闇が確かに多いが、絶望ばかりでもないとフランシスコは指摘する。どこに希望があるかと言えば、まさにパンデミックの時に、利他的な行動の証を日常生活の中で示した人々が、隣人愛を実践しているところに現れる。

前述したような黒雲にもかかわらず、「多くの新たな希望の兆しがある。それは、神が私たち人間家族に、豊かな善の種を蒔き続けておられるからである。最近の新型コロナウイルスの世界的大感染は、周りのすべての人が恐怖の最中にあって、自分たちの命を危険にさらすことで対応したことを、私たちが改めて認識し、正当に評価することを可能にさせた。私たちは気づかされた。私たちの生活が、共有する歴史の挑戦に答えてかかわった人々――医師、看護師、薬剤師、店主、スーパーマーケットの労働者、清掃員、世話人、運輸労働者、必要なサービスと公共の安全を提供する男性と女性、ボランティア、司祭と修道士……と編み合わされ、支えられている、ということを。彼らは、誰も一人で救われることはないことを理解したのである」(同上51)。

隣人になった異邦人

第2章のテーマは、すべての人を結びつける隣人愛である。「隣人とは誰」と問わずに、隣人になることへの問いかけが大切である。

この章の主人公は、道端の被害者に対して憐みを示した〈よそもの〉、外国人、サマリア国の旅人である(同上56~86)。隣人と思われがちではない者の隣人になった人から、私たちは親愛の模範を学べば、世界人民の理想を求める〈善意の人々の倫理〉と、人類が皆兄弟姉妹の家族だと確信している〈宗教者の倫理〉は、手をつないで平和の建設にかかわることができるようになるだろうとフランシスコは言う(同上56)。

 現代社会の闇に対し、回勅には、ルカ福音書でイエスが語ったとされているたとえ話がある。「憐れみのあるサマリア地域の人」の模範を示すと同時に、人の苦しみに背を向け、弱い立場の人々に思いやりをもたず、病んでいる現代社会の無関心と直面させ、先入観や個人的な利害を乗り越え、助けを必要としているどんな人に対しても寄り添うように呼びかける(同上64~65、81)。

 ルカ福音書(10章25、37)では次のように伝えられている(本田哲郎訳、新世社、2001参照)。

「その時、一人の律法家が立って、イエスを試そうとして、『導師、なにをしたら、永遠のいのちをいただけるのだろうか』と言った。イエスはその人に、『律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう理解しているのか』と言った。その人はこう言った。『心の底から、自分のすべてをかけ、力のかぎり、判断力を駆使して、あなたの神、主を大切にせよ』。また、『あなたの隣人を、自分自身のように大切にせよと』。イエスは『そのとおりだ。それを実行すれば、人は生きる』と言った。すると、その人は、自分が実践していることを示そうとしてイエスに、『それでは、わたしの隣人とは、だれだろう』と言った。 

 この問いを受けて、イエスは次のように語った。『ある人がエルサレムからエリコへ下っていくときに、追い剝ぎにあった。追い剝ぎどもはこの人の服を剝ぎ取り、傷を負わせ、半殺しにして去った。たまたま、一人の祭司が同じ道を下ってきたが、その人を見ると、道の反対側を通って行った。同様に、一人のレビ人もその場所に差しかかると、その人を見て、はらわたを突き動かされ、近寄って、傷口にぶどう酒とオリーブ油を注いで包帯をし、自分のろばに乗せて宿屋に連れて行って介抱した。そして、つぎの日、五千円の金貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して、『この人を介抱してください。もし、費用がかさんだら、帰りにわたしが払います』と言った。

 ところで、この三人のうち、追い剝ぎにあった人の隣人になったのは、だれだとあなたは思うのか』。すると律法の専門家は、『その人の痛みを分って、行動に移した人』と言った。イエスは、『あなたも行って、同じようにしなさい』と言った」(ルカによる福音書10、25~37。同上の回勅、56で全文引用)。

 フランシスコによると、このたとえ話を取り上げるとき、前述した二つの立場からの読み方ができる。

まず、このたとえ話は、信仰か無信仰かを問わず、または宗教や文化の違いを超えて人類は皆が兄弟姉妹であると思っている「善意の人々」にとって有意義なメッセージを伝える話として受け止めることができる。「すべての人が人の苦しみを和らげることのできる社会の構築に共同の責任を負っている」(同上77)。

それから、このたとえ話は、信仰者にとって特に人類愛・隣人愛へ招きを根拠づける宗教古典として捉えることができる。キリスト信者にとって、イエスの言葉はさらに深い意味を持つであろう。それは、見捨てられ、除外された兄弟姉妹(マタイ福音書25、40~45参照)の一人ひとりの中に、キリストご自身の存在を認識するように、強いてくれる。信仰には、他者への尊敬の念を鼓舞し、持続させるための計り知れない力がある。信仰者は、神が無限の愛ですべての男女を愛され、それによって、全人類に「無限の尊厳を与えられる」ことを知るように呼ばれるのである(同上85)。

宗教者の夢やユートピアは人類家族の希望であり、善意のある人々の夢やユートピアは世界人民の精神に生きる者が共有するものである。両者が共鳴でき、協働することができるとフランシスコが主張し、両者は力を合わせて、親愛のある社会建設の実現にかかわることができると言う(同上56)。

 それと同時に宗教者ならではの理想の実現を動機づけることもできよう。「信仰者は、あらゆる疎外された人の中に神の姿を見つめるように招かれており、自分たちもまたその人を助ける神の手になるように呼ばれているのである」(同上85)。 

他者と出会える開かれた世界

 第3章のテーマは 開かれた世界を考え、繋がっている世界を造るために自分とは違う者との出会いを通して社会的親愛(amistad social)を育てることである。全人類が繋がっている開かれた世界を造ろうではないかとフランシスコは言う。「自分自身から抜け出し、普遍的な交わりへと向かい、違う者との出会いを通して、互いに影響し合うようにしたい」(同上88、95)。

人間は自己から出て他者に出会うとき、他者との出会いにおいて成長する。人と人が出会って、文化と文化が出会ってはじめて社会的な親愛にもとづく開かれた世界が造れる。

ところが、隣人愛・親愛のかかわり方はただ単に〈一対一、いわゆる我と汝〉の次元のものだけではなく、社会の中での人間関係、すなわち〈我々対汝らまたは彼ら〉の次元での人間関係に当てはめるのは本回勅の目指しているところであるが、3章から6章まで、こうした社会関係の領域において親愛の実践と互いに認め合うことの理想と困難をフランシスコは追求する(同上3章~6章)。言い換えれば、個人と個人の間の関係(inter-personal relations)の領域だけではなく、諸制度を媒介にしてつながる社会関係(social relations)の領域においても人類の皆を結びつける親愛を生かそうということである。「一致と親愛の結びつきがあるところにいのちが開花する。逆に、わたしたちは各個人が島であるかのようにふるまうとき、命は滅亡する」(同上87)。

違う者との出会いにおいて親愛が実を結び、他者に開かれた世界を築き上げることができる。人間は「自分自身から抜け出し、普遍的な交わりへと向かっていき」…「違う者との出会いにおいて、互いに影響し合い成長し」…「親愛は一切の壁をなくし、橋を架けるのである」(同上88、95)。

 隣人になるということは人の道であり、人を人間らしくするのである。「自己を他者に与えることによって自己発見と自己実現が得られ」(同上87、228)、その夢の実現のためには「互いに認め合うことこそ基本の条件である」(同上89)。

こうした根本的な立場から出発してフランシスコは個人の尊厳と共同善を同時に求めるように勧める。「壁ではなく、橋を架け、人間的な結びつきを大切にし、切られている縁を結び直し、抑圧されているものを解放するようにつとめたい」。「人間の霊的な徳の高さは、他者のより良い人生を望む愛によって量られるのである」(同上92~93)と言う。

 さらに、フランシスコは国際関係における平和の建設のために不可欠な政治と経済の諸問題に直面し、特に二つの領域に焦点を合わせて考えている。すなわち、移民・難民のふさわしい受け入れ方と世界経済における財の正しい分配の問題である(同上126)。

移民の問題に関してフランシスコは、戦争、迫害、自然災害からの避難、人身取引などによって故郷を追われた移民たちの「引き裂かれた生活」(同上37)を見つめ、彼らが受容、保護、支援され、統合される必要を訴えている。移民の向かう国においては、市民の権利と、移民の受け入れと支援の保証との間の、正しいバランスが重要となり(同上38~40)、特に「重大な人道危機」から逃れる人々への不可欠な対応として、査証発行の増加と手続きの簡易化、人道回廊の設置、宿泊所の保証、安全と基本サービスの確保、就労と育成の機会の提供、家族の呼び寄せ条件の緩和、未成年者の保護、宗教の自由の保証などの制度を整備する必要がある。中でも必要とされるのは、個々の危機への対応はもとより、全人民への連帯的発展のために、移民のための長期的計画を実施する、グローバルな展望である(同上129~132)。

 そして世界経済における財の正しい分配の問題に関してもこの章で触れており、ここ150年間歴代の教皇が述べてきた「福音にもとづいた社会的教え」、いわゆる「教会の社会教説」を繰り返している。特に、次の点は重視されている。⑴個人の尊厳と自由および基本権利の尊重、⑵共同善の促進、⑶すべての人の連帯性、⑷地球環境の保護、⑸地上の財は、すべての人に正しく分配されるべきであり、故人財産に対する自然権は、生み出された財の普遍的な用途の原則に対して第二義的である(同上106~127。枚数の関係でここで省略してそれに言及するにとどめた)。

 前述した社会観と人権に関する話を聞くと、浮かんでくるのはフランス革命以来よく叫ばれてきた三点、すなわち自由、平等、親愛(liberté, egalité, fraternité)のことである。しかし、この有名な三つの主張の理想の実現についてフランシスコが出している疑問に答える必要があろう。というのも、この三つの主張を縦割りでとられることがあり、平等を無視して自由を過度に強調することもあれば、自由を無視して平等だけ強調することもあるからである。場合によっては前者の主張は左翼、後者は右翼とレッテルを張られるのだが、両者とも親愛を無視すれば自由や平等の主張も成り立たなくなる。フランシスコによると、親愛に基づいてはじめて自由と平等の尊重も保証される。「親愛はただ単に個人の自由が尊重されれば得られるのでもないし、行政の在り方によって皆の平等扱い我路インカ保証されれば獲得されるのでもない。親愛を育てるためには人が相互に影響し合い、認め合い、成長するように、助け合うための普遍的な価値観を養う教育が必要であり、自由と平等の尊重を同時にできる人が育つ必要がある」(同上103~105参照)。

開かれた心をもつ地域市民と世界人民

第四章のテーマはグローバル化した世界の理想とローカルなものの尊重を親愛によって統合させることである。

国際関係において親愛の理想を実現するため、分け隔てをなくして架け橋を造る必要がある。前章で取り上げた国際関係における二つの問題(すなわち移民の流動と経済制度のグローバル化)を法律や行政の視点から取り上げるだけでは足りない。国内における多様性と一致、または地方の自治と国家の統一の問題にしても、国際関係における地域の利益とグローバルな次元での共同善の両立の問題にしても、その解決のために取り組む人々、特に政治指導者たちが地域と世界の共同善に対する開かれた心を持たなければならないとフランシスコは力説する。

 つまり、地域の市民としての責任と世界の人民としての意識を同時に持ち合わせて行動しなければならないということである。「グローバル化とローカル化の間には、緊張が存在する。グローバルに注意を払う必要があるが、ローカルにも目を向ける必要がある」(同上142)。

 そこで「地域市民」と「世界人民」という用語は意味深長に用いられていることに留意したい。民主主義の名をたびたび口にしても、実際に全体主義的な政治の仕方が大国にもみられる。独裁的な傾向の国家が用いがちな「国民」という用語はここでは避けられており、意図的に「市民」と「人民」という言葉遣いが強調されている。本来、民主主義的な討論において、討論する地域の市民と世界の人民は、一人ひとりの個人主義に対しても、国家の独裁主義に対しても、国の憲法と国連の人権宣言によって守られていることが前提にされている。

 フランシスコは、自国の伝統に根を下した姿勢を保ちながら、他国の者に対する開かれた心を持ちたいと言う。それと同時に、自己に閉じこもらないように注意しながらも、自己の伝統文化を評価する必要がある。「自身の持つ豊かさを軽蔑すれば、他者への真の開きがない。自分自身の個性の認識なしに〈他の人々〉との対話があり得ないように、自分の文化的ルーツへの愛着の基礎をもたない人々の間に、開放性はあり得ない」(同上143)。

 しかし、健全な愛国心と間違えられがちな自国や自分の地域のナルシズムに陥りたくない。「自分の仲間や文化に対する健全な愛と無関係の、ある種のローカルな(地域的)」ナルシズム(自己陶酔)がありうる。それは、相手を拒絶することに繋がる特定の不安と恐怖、及び、自己防衛のために壁を造りたい欲望から生まれる」。一方で、「ローカルなナルシズム」は、一定の限られた、考え、慣習、安全の形のみに腐心する。そして、自分たちの地域を越えた、より広い世界がもたらす大きな可能性と美しさを賞賛できないため、連帯という真実で寛大な精神に欠けることになる。このようにローカルな段階に基づく生活は、次第に友好的でなくなり、人々もまた相互補完に対して徐々に開放的でなくなる(同上146)。

さらに、フランシスコは自分とは違う文化の影響によって自分の伝統を再発見すると同時に普遍的な価値観の地平が広がると考えている。

ローカルも喜んで受け入れねばならない。グローバルが持っていないものを持っているからだ。それは、パン種となり、豊かさをもたらし、補完性のメカニズムの口火を切ることができる。普遍的な兄弟愛と社会的な友愛は、このようにして、どの社会においても、不可分で平等な重要な役割を果たす。この二つを切り離せば、互いを傷つけ、危険な分裂を招くことにもなりうる(同上142)。健全な文化は、まさに本質的に開放的であり友好的である。実に、「普遍的な価値を持たない文化は、本物の文化とは言えない」(同上146)。

その問題の解決は、それ自身の持つ豊かさを軽蔑するような開放性ではない。自分自身の個性の認識なしに「他の人々」との対話があり得ないように、自分の郷土、自分の仲間たち、自分の文化的ルーツへの愛着の基礎をもたない人々の間に、開放性はあり得ない (同上143) 。

それはまた、健康的で豊かな交流を生む。特定の場所で育てられた体験、そして特定の文化を分かち合う体験は、他の人々が容易に気づかない現実の側面についての洞察力を与えてくれる。普遍性は、ありきたりで、画一的で、単一の支配的文化の原形を基礎にしていることを、必ずしも意味しない。なぜかというと、普遍性がそういう意味なら、「様々な色合いに富んだ絵の具の喪失」につながり、まったく単調なものになってしまうからだ(同上144)。

偽りの開放性が、あらゆる人々に向けられる可能性がある――それは、彼らの生まれ故郷の特質への洞察不足、あるいは、自分たちの同胞に対して抱き続ける憤りという浅薄さに起因する。どんな場合であれ、「私たちは、常に視野を広げ、私たちすべてに益となる、より大きな善に目を向けるようにせねばならない。しかも、逃げたり、根こそぎにしたりせずに、である(同上145)。

自分の仲間や文化に対する健全な愛と無関係の、ある種の「ローカルな(地域的)」ナルシズム(自己陶酔)もある。それは、相手を拒絶することに繋がる特定の不安と恐怖、及び、壁を建設して自己防衛を図りたいという欲望から生まれる。しかし、心からグローバル化に開放されていること、他の場所で起きていることに自分たちが取り組むべきことだと感じること、他の文化がもたらす豊かさに開放的であること、他の人々を襲っている悲劇に連帯して心配すること、これらのことがなければ、健全に「ローカル」であることは不可能だ(同上146)。 

互いの相違に出会い、触れるのでなければ、私たち自身と自国のことも十分に理解することが困難になる。「他の文化は、私たちが自身を守るための〝敵〟ではなく、人間の生活が持つ、尽きることのない豊かさの形を変えた姿なのある」(同上147)。実際に、健全な開放性は、決して自分自身のもつ個性(アイデンティティ)を脅かしたりするものではない。かえって他の地域から来た要素によって豊かになった生き生きした文化は、単なる新しい要素のコピーとしての輸入ではなく、ユニークな方法でそれらを統合するようにもなりうる(同上148)。  

自国への愛と、もっと大きな人類家族に属しているという、しっかりした感覚の間にある健全な関係のために、グローバルな社会とは、単なる国々の統合体ではなく、それらの国々の間に存在する共同体が影響しあう結果であるということを念頭に置く必要がある。相互に依存している、という感覚がまずあって、個々の集団が存在するのである。それぞれの特定の集団は全世界の共同体という織物の一部になり、共同体の中に自分たちの良さを発見する。「出自が何であれ、個々人すべてが、自分自身を十分に理解できないだろう、ということなしに、より大きな人間家族の構成員であることを知るのである」(同上149)。

このように物事を見ることは、どの民族も、どの文化も、そして個人も、それ自身だけでは何事も成し遂げられないのだ、という認識をもたらす。私たちが人生で何かを達成するには、他の人々が必要なのである。自分自身の限界と不完全さを自覚することは、脅威であるどころか、共通の計画を予測し追求するための鍵となる。「人間は無限に開かれたものでありながら限界のある存在」だからである(同上150)。

地域レベルでの市民の精神と世界レベルでの人民の精神を育てるためには、家族と学校で養われる価値観の教育の原点に立ち返らなければならないのだが、国内と国際関係で民主主義の本来の姿を取り戻し、その理想を実践に移すためには政治の在り方の原点に立ち返らなければならない。それは次の章の課題である。

政治の原点に立ち返る

第5章のテーマは、民主主義政治の本来の姿を取り戻すことである。前述した地域の市民の責任と世界人民の意識をもって政治の課題に取り組み、真の民主主義政治の原点に立ち返ろうとフランシコは訴えている(同上154)。それは、前章で述べたように共同善に奉仕し(同上 180)、地域市民意識(ciudadanos del pueblo)をもつと同時に、世界人民意識(ciudadanos del mundo)をもつことの重要さを認識し、民主主義的な対話を行い、公共制度のレベルまで親愛の実践にかかわるということである。

フランシスコが言う「vox populi」は「民衆の声」であり、民衆を大切にする政治の原点に立ち返ろうというときには「民衆中心」という表現はとても良い意味で使われている。スペイン語で、プエブロpuebloは、民衆・市民・人民の概念の本来のよい意味をもっている。

しかし、最近種々の国で台頭しようとしている極端な右翼や左翼の政党がかかえるようないわゆるポピュリズム(スペイン語でpopulismo、英語でpopulism)は必ずしもその良い意味での「民衆中心」ではない。そのためにつぎの二つの用語を使い分けたいとフランシスコはいう。つまりpopular(民衆中心)な政治の在り方とpopulista(民衆を先導して利用する)な政治の在り方を区別しなければならないとフランシスコは言う。なお、populism とは一見して正反対の立場のようにみえるliberalismもまた自由の本来の意味とは違う個人主義的な損得の主張のために利用されることも少なくない。したがって、両者に対してフランシスコは懸念をあらわす。「そのために真に共同善に奉仕する政治が必要とされている」(同上154)。

弱者への思いやりの欠如は、それ自体の目的のために彼らを煽り立て、搾取する「ポピュリズム」、あるいは強者の経済的利益に役立つ「新・自由主義」(neo-liberalismo)の背後に隠れることがある。どちらの場合も、最も弱い人々を含む、すべての人のための場を作り、異なる文化を尊重する開かれた世界を心に描くことを難しくする(同上155)。

「単なる個人の集合体ではないこと」を私たちが堅持したいのであれば、「人々」という言葉が必要である。多数派を生み出す社会的な現象だけでなく、時代の大きな流れや共同体主義への強い願望もある」(同上157)。

近年、「ポピュリスタ」(populista)対「liberal」というレッテルのつけ方が、メディアや日常会話によく使われるようになっている。その結果、そうした言葉が持っていたかもしれない価値を失い、すでに分裂した社会で二極化のもう一つの原因にもなっている。

コミュニティと文化的絆の前向きな見方を必然的に伴う「人々、民衆」の概念は、通常、社会を単に「共存する利益の総和」と見なす個人主義的な既存の概念から自由なアプローチによって拒否される。 ある人は自由の尊重について話すが、共有された物語に根を持たない。特定の状況では、社会の最も脆弱な構成員の権利を擁護する人々は、「ポピュリスト」として批判される傾向がある。「人々、民衆」という概念は、抽象的な複合概念、実際には存在しないもの、と考えられている。 しかし、これは不必要な二項対立を作ってしまう。「人々、民衆」の概念も、社会組織、科学や市民の機関が拒絶されたり軽蔑されたりするような仕方で、純粋に抽象的な、あるいはロマンチックなもの、と見なすことはできない(同上163)。

「必要とされるのは、人間の尊厳を中心に据え、金融に支配されない政治、貧しい人々と共にある政治である」 (同上169)。

フランシスコは、「必要とされるのは、人間の尊厳を中心に据え、金融に支配されない政治」と強調し、それは、投機によって引き起こされた悲劇が示すように「市場だけではすべてを解決できない」からである、と述べている(同上168)。こうした中で、市民の運動は、真の「倫理的エネルギーの潮流」として、特別な重要性を帯びる。市民運動は社会の中に秩序をもって位置付けられなければならない。フランシスコは、こうすることで、貧しい人々に対する政治から、貧しい人々と共にある、貧しい人々の政治となる、と説いている(同上169)。

〝ポピュリズム〟を社会的現実として解釈するための鍵と見なそうとする試みには、別の問題がある。「人々」という言葉の正当な意味を無視するからであり、「人民による政治」という民主主義の概念そのものの排除につながる。

目先の利益に焦点を当てた多くのささいな政治の形を前にして、フランシスコは繰り返す。「困難な時期に、私たちが大義名分を掲げて、長期的な共同善を考えるとき、真の政治手腕ははっきりしている」(同上178)。

 平和を築き上げる真の対話

6章のテーマは真の対話である。親愛にもとづく人間関係および社会関係を築き上げていくための方法は「相当忍耐を必要とし、時間がかかる対話しかない」とフランシスコは言う。(同上198)。冒頭からここまで訴えてきた親愛にもとづく社会づくりが実現するためにはどういう具体的な方法があるかと聞かれたら「対話しかない」とフランシスコは繰り返す。「近づくこと、話すこと、聴くこと、目を向けること、互いに知り合い、理解し、共有できる場を見つけようとすること――これらのことは『対話』という一語に尽きる」(同上198)。

 しかし、社会を変えるために話し合いをしなければならないとき、人々は異なった態度でその課題に直面することがある。例えば、次の四つの立場が例としてあげられる。⑴自分の小さく安全な世界に避難し、現実から逃れようとする人々は社会を変えることに対して無関心で対話せずに何もかも今までどおりでよいという保守的な立場をとる。⑵破壊的な暴力で対応しようとする人々は革命的な進歩主義者の立場に立つ。⑶前述した両極端を避けようとして政治的な駆け引きによって交渉する人々は妥協の折衷案しか生み出さない(いわゆるmiddle pointすなわち中央点の立場とも言える)。⑷すべての人と対話し、現在合意を得られない人とでもいっしょに対話し続けることを選ぶ立場もある(これは「真の中庸の道、middle way」、または第四番目の道とフランシスコが好んでそう呼んでいる立場である)。「もう一つの可能な選択は対話である。多方面の文化の分野――大衆文化、大学文化、若者文化、芸術的文化、技術的文化、経済的文化、家庭文化、そしてメディアの文化――の間で建設的な対話がなされるとき、国は繁栄する」 (同上199) 。

これだけ広い視野の中で考えれば、人と人を結ぶ新しい出会いの文化をつくっていけるであろうが、そうした対話のために前提とされる次の条件を忘れてはならない。すなわち、⑴自分の損得だけにとらわれずに、⑵共同善を求め、どの反対の意見でも何かの形で全体のためになる貢献もできることを認め、⑶自分に都合よく結論を出させるために話し合いを操作しないことである。フランシスコは言う。「たびたび政治討論や懇談会は、単なる交渉の会合となり、参加者それぞれが、共同善を協力して追求しようとするよりも、得られそうな利益なら何でも手に入れようと試みるだけである……」(同上202)。 

こうした真の対話で得られる合意は単なる交渉の結果だけではなく、合同の目標に向かっている人々の創造的な作業なのである。「真の対話は、相手の観点に敬意を払い、その観点には、正当な信念や関心事が含まれることも認め、……たとえ他者の言動を私たちの信念として受け入れることができなくても、私たちは彼らの言動の意味を理解する能力を成長させ、……違いをぶつけ合うことによってそれぞれ立場の限界を創造的に未来に向かって発展させる」ということである(同上203)。

このように多様性を認めると、相対主義に陥る心配があると疑問を出されるだろうと予想してフランシスコはことわる。「この立場は決して相対主義ではない……真の対話によって求められるのは人間にとっての普遍的な価値観でなければならない……人間の本性に目を向ける理性は、そこに普遍的な価値を見いだすのである」(同上208)。

だが、倫理学と政治学を統計学的に計算されうる次元のものに還元することこそ相対主義を招き、民主主義を誤解して単なる多数決で価値観が決まるかのように理解されてしまうことがある。それよりも、基本的に普遍的な価値が、ひとたび対話と合意によって認められ、採り入れられる場合、それらの価値が合意を超えることが分かる。「大切な価値は対話を通して見つけられ、合意によっては作り出されない」(同上211・212)。

  他者の尊厳はいかなる状況においても、大切にされねばならない。それは、「尊厳は、私たちが創り出したり、想像したりするものではなく、人間固有のものだからである。このことは、人々がそれぞれ異なる仕方で扱われることを求める(同上213)。信仰を背景にしない倫理なら、前述したような普遍的な価値の根拠づけで十分かもしれないが、宗教を背景にする倫理の場合、信仰者ならではの根拠づけの仕方があげられるであろう。「信仰者として、私たちは、人間の本性は、倫理的な原則の源として、神によって創造され、最終的にこれらの原則に確固とした基盤を与えたのも神だ、と確信している。このことは、倫理的な頑固さをもたらすことでも、道徳律のうちのどれか一つを押しつけようとすることでもない。基本的で普遍的に正当な根拠のある倫理的な原則は、異なった実用的なルールに具現化できるのである。このように、対話のための機会は常に存在する」(同上214) 。

 このように多様性を認めると同時に、一致する普遍的な価値観を求める対話の仕方を多面体のイメージを通してフランシスコが勧める。そうした対話こそ新しい世界文化を造っていくための指針となる。「私は、何度も違いや境界を越えた、文化の出会いとその成長を呼びかけてきた。これは、多くの側面からなる一つの多面体を創出するために働くことを意味し、それらの異なる側面が、多様性を持つ統一をもたらし、そこでは『それぞれの側面より全体が重要』になる。多面体のイメージは、『違いが共存する社会』、『対立や疑念の渦中にあっても、互いを補い合い、豊かにし、啓発し合う社会』として示すことができる。私たちは誰でも他の人から何かを学ぶことができ、誰一人として、役に立たない人も、使い捨てにされてよい人も、いない。これは同じように、社会の周縁部にいる人たちをも包含する道を見つけることを意味する。それは、周辺部にいる人たちは、物事を別の角度から見ており、自己に有利な決定をする権力の中心にいる人たちには見えない、現実の様々な側面を見ているからである」(同上、215)。

和解の道をととのえる最高の対話

7章のテーマは和解の対話である。再び会うこと、違う立場や考え方の者は戦った後の傷跡を持っており、その傷がまだ癒されていない者が対話して和解と癒しのプロセスを辿らなければならない。そうした状況において和解への道を通して対話をしなければ継続する平和に至ることは不可能に近い。フランシスコは和解を目指すこのプロセスとその前提について述べている。「傷の回復につながる平和の歩みが必要……。癒しと再び会う道を生み出す決意をもった平和の職人が世界の多くのところに必要とされている」 (同上225)。兄弟の間の殺し合いや内戦などのような葛藤・対立の後で、不可能に近いと思われる和解のプロセスのために行われる政治的な話し合いは、一番困難な対話であると同時に、もっとも必要なのだとフランシスコは断言する。

現在、世界の多くの地域では、深い傷を癒すための、平和への道が必要とされている。また、癒しと新たな出会いの取り組みを始めるためには、大胆かつ創造的に活動し、平和をもたらすことにかかわる人が必要とされている。しかし「新たな出会いとは、紛争以前に戻ることではない。私たちは皆、時とともに変わっていく。痛みと争いが私たちを変える。現実を覆い隠すような空虚な偽りや現実を隠す巧みな振る舞いは、もはや通用しない」(同上226)。

不正行為が双方に起きたとき、それが同程度に重大なのか、それとも何らかの方法で比べられるのかを、明確に考慮に入れることが重要である。国家が、組織や権力を使って犯した暴力は、特定の集団による暴力と同じ程度ではないが、いかなる出来事においても、一方の不当な被害だけを悼むべきだと主張することはできない。罪のない犠牲者一人ひとりに対して同等の敬意を払わなくてはならない。したがって真実から新たに出発するのは和解のための対話に必要な条件である。「真実・正義・憐憫――この三つがそろっていることが平和を構築する対話の不可決な条件である……」(同上227)。さらに、歴史的な真実にもとづいて検討しなければならない。人民には、何が起きたのかを知る権利があるのである。相互理解と万人のための善をもとめて……犠牲者の記憶を尊重し、報復よりも、共通の希望に向けて歩みたいものである (同上226) 。

前述した「真実・正義・憐憫」だが「この三つの条件がそろっていることが平和の構築には不可決である……暴力は暴力を生み、報復連鎖を断ち切らなければ平和の建設ができなくなる」(同上227) 。

このような和解への道で忍耐を持って努めることは民芸の手仕事にたとえられよう (同上228) 。敵対な関係が長年続いたあと、和平交渉の結果としてできた新しい政権はたたき合った両側の者を含めて一緒にこれから我が国の未来をつくっていきたいと決心したとしよう。その時の社会づくり、平和づくりのためには和平交渉や政権を取った指導者たちの命令だけでは足りないであろう。時間と努力がかかる和解のプロセスを辿って平和に至ることはたいへんな課題なのである。「平和への道は、社会を当たり障りのない、画一的なものにすることではなく、すべての人を益する目標を追求するために、人々が力を合わせ、協力し合うことである」(同上228)。対立が解消されず、隠されたり、過去に終わったこととされたりする場合、黙っていることは、重大な犯罪の共犯者になってしまうことにもなりかねない。「本物の和解は、対立から逃げず、率直に誠実で忍耐強い対話をすることで、達成される。異なる集団の間の対立は憎しみや互いの嫌悪を自制すれば、正義への欲求に基づく、互いの相違についての率直な議論に徐々に変化する」 (同上228) 。

フランシスコが強調しているように、葛藤・対立を乗り越えるためには、両極端の妥協による似非の調和に終わってしまうことがありうるけれども、両者の立場がぶつかり合いながら話し合い、歩み続けたら、前述した「第4の道」が未来に向かって開かれてくるであろう(同上245)。「社会における親愛の構築に不可欠な原則、すなわち、一致は、対立よりも優れている……それは、一種の混合主義(syncretism)や、一方の他方への吸収を選ぶのではなく、もうひとつ高いレベルで、双方が妥当な解決を選ぶことだ」と (同上229) 。

そこでフランシスコは平和の建設における技術的な面と芸術的な面を同時に生かす必要があると強調している。うがった表現でその二つの側面をスペイン語でarquitectura (建築の術)と artesanía(民芸の手仕事)と使い分けて呼んでいる。「平和建設のためには政治家の交渉による構築(arquitectura, negociación)と、永続する平和のために一緒に働く人々の民芸の手仕事 (artesanía de la paz perpetua)が必要である」(同上231) 。

なお、もう一つの注意がいる。兄弟の間の対決でたたき合った両陣地の代表者を対話のテーブルに座らせて和解を求めさせるだけでは足りない。両側のなかでも社会のもっとも貧しくて、忘れられがちな小さな者との和解から始めなければならない。 「社会的な友好関係の構築とは、歴史上の問題を抱えていた時期に、異なる立場にあった集団の間の和解が求められるだけでなく、社会の最も貧しく脆弱な部門との新たな出会いを求める必要がある」 (同上233) 。

さらに、もっともデリケートなところは、赦し合いの価値と意味について対話するときの姿勢である。

多くの不当で残酷な苦しみに耐えてきた人々について、一種の「建前だけの社会的な赦し」が求められるわけにはいかない。 和解は個人的な行為であり、誰もそれを社会全体に押し付けることはできない。ただ、それを促進する必要性は非常に大きい。 それが社会とその司法制度によって全く合法的にそうすることが求められたとしても、厳密に個人的なやり方で、自由で寛大な判断によって、誰かが罰することを求めることを選ばないことはできるが、命令によって傷口を縛ったり、忘却のマントで不正行為を覆い隠したりすることで包括的な和解を宣言することはできない。他の人の名において、赦す権利を主張できる者はいない。受けた危害を忘れておくことのできる人によって示される赦しは感動的ではあるが、それはまた、赦すことのできない人にとっては人間的に理解しがたいことであろう。いずれにしても、忘れることは決して、答えにならない。フランシスコははっきりと、「ユダヤ人のあのholocaustや広島と長崎に投下された原子爆弾も、忘れてはならない……現在そして将来の世代が、過去に起きたこのようなことの記憶を失うことは、許されない。それは、より公正で親愛に満ちた未来の構築を確実にし、奨励する記憶なのである……また、さまざまな国で続いている迫害、奴隷取引、民族の抹殺、そして私たち人類を恥じさせる他の多くの歴史的出来事を、忘れてはならない。それらは常に、そして新たに記憶する必要がある。私たちは決して、そうしたことに習慣化したり、慣れたりしてはならない」(同上248)。

要するに、赦すことは「忘れること」を意味しない。――否定したり、相対化したり、隠蔽したりすることが決してできない現実に直面するとき、赦しがなお可能になる。決して容認できない、正当化できない、あるいは言い訳のできない行為に直面した時、私たちはそれでも赦すことができるのである。何らかの理由で忘れることのできないものに直面したとき、私たちはそれでも赦すことができるのである。強制されたのではなく、心からの赦しは、気高く、赦すという神の無限の力の反映だと言える。

赦す人は、「忘れた」というのではない。忘れる代わりに、自分をひどく苦しめた破壊的な力と同じ力に従わない道を選んだのである。本当に赦す人は悪循環を断ち切り、破壊力が進むのを止めることである。大打撃をもたらすような復讐心を、社会に広めない道を選ぶ。復讐が犠牲になった人を満足させることは、決してない。犯罪があまりにもおぞましく、残酷であるため、犯人を罰しても受けた損害を償うのに十分ではないからである。犯人を死刑にして殺したとしても、解決にはならないし、どのように拷問をしても、犠牲になった人に与えられた苦痛に見合わない。復讐は何も解決しない。しかしこれを言うのは決して償いがいらないとか、ふさわしい処罰を免れてもよいということを意味しない。正義は、個人的な怒りのはけ口としてではなく、新たな罪を防ぎ、共同善を守る手段として、正義と犠牲者への敬意から、適切な形で追求されても当然であるが、赦し合いはまさに、復讐の悪循環や忘却という不正に陥ることなく、報復ではなく、修復正義を追求することを可能にするのである(同上250・254)。

ところが、回勅のはじめから宗教を背景にする立場だけではなく、宗教を背景にしない「善意のある人々」の一般倫理の立場の者にとっても通じる表現で述べようとするが、和解と赦し合いといった難しいところになると、はたして納得いただけるだろうかとフランシスコは認め、ここにおいてこそ宗教ならではの証言の出番ではないだろうかと言う。そしてこの章の終わりにイエスの福音にもとづいた赦し合い、すなわち祈りながらの赦し合いについて述べる。被害者が加害者のために祈ることができ、加害者が回心するように願い、自分も復讐の心から解放されるように祈るというのである。

そのあとでフランシスコは二つの具体的な例をあげて戦争と死刑に対するキリスト教の絶対反対の意見を述べている。そして8章の中で諸宗教の合同証と発言して世界に平和と命の尊重を訴えるのである。

社会的親愛に仕える諸宗教の使命

第8章のテーマは親愛の社会づくりに対する諸宗教の貢献である。

命と人間の尊厳を信仰で根拠づけるのは諸宗教の合同の主張であり、共通な使命でもある。「各人が神の子供になるように造られており、かけがえのない尊厳の持ち主であると認めている多くの宗教は、正義と親愛にもとづいて社会平和を築きあげるために重要な貢献をすることができる。異なった宗教の信奉者が対話するのは単なる外交的な目標を目指すためではなく、真実と愛の精神のうちに霊的体験と道徳的価値観を分かち合うためである」(同上271)。

宗教の役割は、生活の政治的側面、共同善への関心、人間の全面的発展への配慮 (276~278)。フランシスコは世界平和・地球保護・人権尊重のために他の宗教とともに歩みをあわせて人類の親愛のもとに、対話を道として、相互理解と社会平和へのかかわりを選びたいと言っている(同上285) 。

諸宗教間の平和の歩みに関してはその協働を可能にし、保護するためには、信仰を持つすべての人の基本的人権である信教の自由を保障する必要があるとフランシスコは指摘している(同上279)。

テロリズムについては、宗教そのものが原因ではなく、宗教の経典の誤った解釈や、飢餓、貧困、不正義、抑圧などを生む政治によるものとフランシスコは強調している(同上281~284)。

なお、教会の役割については、政党政治を行わないながらも福音の原則に沿って生活の政治的側面、共同善への関心、人間の総合的発展への配慮をすることは信仰者共同体の使命と責任でもあると言っている。置き去りにすることはないとした(同上276)。

最後にフランシスコは、2019年2月4日、Abu Dhabiアブダビで、アル=アズハルのグランド・イマーム、アフマド・アル・タイーブ師と共に署名した共同文書「世界平和と共存のための人類の親愛・兄弟愛」に言及。諸宗教対話の大きな節目となったこの共同文書から、教皇は、「人類の親愛の名のもとに、対話を道として、協力を態度として、相互理解を方法・規範として選ぶよう」アピールを新たにしている(285)。

 ここで、その合同宣言の要約を掲載して本回勅の紹介の結びに変よう。

すべての人間を権利、義務、尊厳において平等に創造され、兄弟姉妹として共に生き、地球を満たし、善、愛、平和の価値を知らしめるよう求められた神の名において、

神が人を殺す者は誰でも人類全体を殺す者のようであり、人を救う者は人類全体を救う者のようであると断言し、殺すことを禁じられた罪のない人間の命の名において、

神がすべての人々、特に富んだ人々や資力のある人々に求められる義務として助けるように、私たちに命じられた、貧しい人々、困窮した人々、疎外された人々、そして助けを必要としている人々の名において、

孤児、未亡人、難民、そして自分の住まいや国から追放された人々の名において、戦争、迫害、不正のすべての犠牲者の名において、弱者、恐怖の中で生きる人々、戦争捕虜、そして世界のどこであろうと拷問された人々の名において、

安全、平和、そして共に住む可能性を失い、破壊、災害、戦争の犠牲者となった人々の名において、

すべての人を包含し、結びつけ、平等にする人類友愛の名において、

過激主義と分裂の政策によって、無軌道な利益本位の仕組みによって、あるいは男女の行動と未来を操作する憎悪のイデオロギー的傾向によって引き裂かれた友愛の名の下において、

神がすべての人間に、制約の無い、その贈り物で区別した、自由の名において、

繁栄の基盤と信仰の礎石である、正義と慈悲の名において、

世界のあらゆる場所にいる善意のすべての人の名において、

神とこれまでに述べたすべての名において、(私たちは)対話の文化の道を採り、行動規範としての相互協力と方法と基準としての相互理解を進めることを宣言する(285)


 [Wシ1]・「の綴じ(」)はどこでしょうか。