信仰入門

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『使途信条をめぐって』-信仰入門講座担当者の話し合いノート

ホアン マシア (2007年、六甲教会にて)

前書き

使途信条の順にしたがってキリスト教の教えに関する話し合いノートをまとめます。簡単な「箇条書きだけですが、話し合いに参加した方々の復習のために記録しておきます。

聖書と生活に基づく基本方針

生活経験に照らして福音書を読むこと。

イエスの福音に照らして生活の経験を見直すこと。

これは教えの手引きの基本である。

イエスの伝えた福音

イエスの教えにもとづくキリスト教は、時代と共に発展するにつれて難しいものがつけ加えられてきた。そして、理屈も儀式も規律も、いつのまにか、増えてしまい、創立のころの簡単な信仰の持ち方が複雑になったことがある。これは多くの宗教に見られる現象である。

そこで、余計なものを取り払い、初心に立ち帰る必要がある。

イエスの弟子ヨハネの言葉を参考にしよう。(新約聖書、ヨハネの第一の手紙、1,1-5を参照)。

このヨハネの手紙の冒頭にキリスト教の要約が見事に簡潔な形で表されている。

私たちもこの研究会では「イエスとともに」歩みながら「真実のいのちへの道」を求め、それを「イエスの福音を学ぶ」ことによって求めたいのである。

では、この二つの言葉について簡単な説明しておこう。

福音とはイエスが伝えた信仰を指す言葉である。それは福音書に書き記されている。

聖書の中で、四つの福音書すなわちマタイ文書、マルコ文書、ルカ文書、ヨハネ文書があるが、それは最初のキリスト者たちの間に口頭で伝えられていたイエスの生涯と教えに関する伝承を、福音記者が信仰者の共同体を代弁して書き記したものである。

「イエスの福音」とはイエスが伝えた「良い知らせ」という意味である。それはどんな「良い知らせ」だったかというと、一言で言えば、「いのちの源である方から人間は子供として愛されているので、人間には希望と生き甲斐が与えられており、兄弟姉妹の世界を作っていくように励まされている」ということである。

福音という言葉の意味

福音という言葉の意味についてもう一つの説明をつけ加えておこう。

「イエスの福音」とは三つの意味で受けとめられる。 イ)イエスが伝えた福音。つまり、イエスが伝えた信仰の教え。 ロ)イエスについての福音。つまり、イエスの生涯と教えを書き記した福音書。 ハ)イエス自身のこと。イエス自身が福音すなわち「朗報」であること、イエス自身が人間にとって「良い知らせ」であり、「希望と生き甲斐をもたらす者である」ということである。

真実のいのちについて

つづいて続いて「真実のいのち」についてヨハネの手紙を読もう。

次のように書いてある。

「はじめからあったもの、私たちが聞いたもの、私たちの手で触ったもの、私たちの目で見たもの、すなわち、いのちのことばについて・・・そのいのちが現れた。そして、父なる神のもとにあったが私たちに現れたその永遠のいのちを私たちは見て、あなたがたに示し、告げるものである・・・私たちが見たもの、聞いたものをあなたがたにも告げ知らせる。それはあなたがたも私たちとのつながりに与るようになるためである。私たちのつながりとは父とその子イエス・キリストとのつながりである。そして私たちがこれらのことを書くのは、私たちの喜びが満ち溢れるようになるためである。私たちは彼から聞いており、あなたがたに告げ知らせるのは、神は光であって、彼の中にはいかなる闇もないということである・・・(1ヨハネ1,1-4)」。

ここに載せた数行はイエスが教えた信仰の真髄を明らかにしてくれるものである。次の要点を覚えておこう。イ)この手紙はイエスに接した人の思い出から語られている。 ロ)教えの中心は真のいのちで、永遠のいのちである。「いのちの源」のことは「父」と呼ばれる「父なる神」である。」 ハ)その奥義はイエスにおいて現れた。イエスはその表現であり、「いのちのことば」と呼ばれている。イエスは永遠のいのちを語っただけではなく、イエス自身がいのちそのものの現れである。だから「御子」と呼ばれている。ニ」この手紙の差出人は複数の形で(私たち)話している。宛先人も複数である(あなたがた)。 ホ)つながり(交わりとも訳されるが、ギリシャ語でコイノニア)という語彙も大事である。永遠のいのちの源なる「天の父から」、永遠のいのちの現れであるイエスを通して、私たちに永遠のいのちが与えられ、私たち皆一つに結ばれている。それは同じ手紙の別なところで「神からの息吹」とか「分け与えてくださる霊」とも呼ばれている(同上3,24)。ヘ)キリスト教のこの信仰を短く表すのは十字架のしるしを示しながらキリスト者たちの唱える「父と子と聖霊のみ名によって、アーメン」という祈りの言葉である。

ナザレのイエスはキリストと呼ばれる

仏教が昔から盛んだった文化圏の人は「お釈迦様」、「釈迦ムニ」、「ブッダ」、「釈尊」などのことばを聞くのに慣れているが、欧米人に説明するときシッダルタ・ゴータマという釈迦の部族のムニすなわち知者や聖者は悟りを開いてブッダとなったというところからはじめなければならない。

釈迦の部族で生まれたゴータマがブッダ即ち悟りを開いた者と呼ばれるように、ナザレ生まれのイエスはキリストと呼ばれていると言えば一応の早わかりの説明になる。

キリストとは、神から「遣わされた」者、「救い主」という意味である。

そして、イエスはキリストであるすなわち私たちに救い(希望)をもたらす方だと信じている人にとってのその名称は「主イエス・キリスト」である。言い換えれば、イエス(真の人)は主(真の神と同一のもの)であり、私たちに救い(希望、生き甲斐、ゆるし、永遠のいのちなど)をもたらすキリスト(神から遣わされた者)だということである。

キリスト教の出発点

先ほど述べた「イエスはキリストである」という信仰からキリスト教は始まった。イエスが「キリスト」すなわち「わたしたちに希望をもたらす方」であると信じている人々はイエスのことをイエス・キリストと呼ぶようになった。

「キリスト」とは先ほど言ったようにヘブライ語の「メシア」(油を注がれた者、選ばれた者、遣わされた者、救い主)のギリシア語訳である。

イエスは紀元前7~6年に生まれ、紀元30年に十字架上で死刑された。27年の頃、ガリラヤ地方を巡り歩いて「やっと神さまが支配するときが近づいた」、「いのちの王国が実現されるときが来た」ということを告げ知らせ、人々に希望を与えたり、病人などを癒したりした。

イエスが説いた「神の支配の実現」や「いのちの王国の実現」(言い換えれば「神様が望まれる世の中」、「真のしあわせに生きる兄弟姉妹の世の中」)という福音(good news, Gospel, 良い訪れ、良い告げ知らせ)は、前述したように、父なる神がいのちの源であり、一人ひとりの人間を造り、一人ひとりのいのちを大切にし、皆が兄弟姉妹として生きるように招き、真の幸せを人間に約束してくださるということである。

この教えは群衆に希望を与えたが、当時の既成宗教の指導者たちからイエスは危ぶまれたのである。イエスは捕らえられ、ユダヤ教の立法と裁判の議会である最高法院によって断罪され、当時パレスティナを支配していたローマ軍に引き渡されて、十字架刑によって処刑されるようになった。

しかし、イエスの十字架の死によって失望し離散した弟子たちが、イエスは復活し、今なお生きているという体験に基づいてイエスが引き起こした運動を続けるようになり、福音を告げ始めた。弟子たちの団体はエルサレムから出発して、ユダヤ教との衝突が生じたのであるが、そのうちにユダヤ教とは別な「新しい信仰者の共同体」を形成するようになった。そして、全世界に向けてイエスの福音を告げ知らせる運動を広めていった。

このようにキリスト教は始まったわけである。

聖書という「家族アルバム」

前述したように、イエスの生涯と教えは、最初は口伝で伝えられ、後に「福音書」に書かれたが、それはキリスト教を信じている者にとって聖書の中でもっとも大切な文書である。聖書について次のようにまとめることができる。

聖書はキリスト教の諸教会が教派の違いを越えて共通に規範としている教典で、もともとイスラエルの民族と、そこから生まれたキリストの教会が自分たちの信仰を伝えるために書き記した書物である。何百年もの長い歴史の中で多くの著者が、さまざまな形で書き記した多くの文書を、後の人々が収録したものである。

聖書には「旧約聖書」と「新約聖書」とがある。「旧約」と「新約」の「約」とは、神と民との間の「契約」という意味だが、旧約聖書はユダヤ教とキリスト教の共通の教典であり、原文はヘブライ語で、イスラエル民族の信仰の体験と理解が長い歴史の中で言い伝えられ、書き記され、編集されて現在の形にまとめられたものである。ユダヤ教にとっては古い契約(つまり、むかしから神からの約束)の書という名称は不本意で、むしろ「ヘブライ語聖書」と呼ぶべきものであろう。

これに対して「新約聖書」とは、イエス・キリストの弟子たちと、その指導を受けた初期の教会の人々が自分たちの信仰を書き表した文書を集めたもので、原文は当時の世界の共通語であったギリシャ語である。さまざまな文書が含まれているが、全体を通じて、イエスこそ旧約聖書の中に記されている「メシア」、「キリスト」であり、旧約の神と民との契約がその新しい契約によって真の完成を見たとして、「新約聖書」と呼ばれる。

(百瀬文晃、『キリスト教に問う』65のQ&A,女子パウロ会;岩島忠彦、『キリスト教についての21章、女子パウロ会;和田幹男、『聖書Q&A』、女子パウロ会;東京教区キリスト教え編集会、『キリストの教え入門』、1992改訂版、あかし書房を参照 』。

「神の場」の自覚と「神の場」の建設。信仰者と神とのつながりかたの三つの場について

数年前に日本国の森首相の失言は話題になった。「日本は神の国」と言ったので、いろいろ騒ぎがおこった。まあ、首相が何を考えていたか私にはわからないが、イエス様が好んでつかった「神の国」という表現に関して言えば、たしかに「国の神」とは正反対の意味をもっている。イエスがいう「神の国」というのは「この国の神』ではなく、すべての国々のための神及びすべての人のための神の国」のことを意味するのである。

「神の国」のことは、「天の場」、「真の命の場」「真理と命の国」、「慈悲と愛・正義と平和の国」「すべての分け隔てを超えた場」という風に置き換えることもできよ。そのような意味での「神の国」、「神が支配する世界」、「神が臨まれる世の中」がもうすでに到来しつつあるというのはイエス様の重要な主張であった。

この世の中は「神の場」になりかかっているが、人々はそれに気づかないのである。いや、気づかないだけではなく、「神の場」になるはずのこの世の中がそれになりきれないのは人間が妨げるからである。そこでイエス様の教えの二つの大きな主張は「神の国の到来に気づくこと」と「神の国の建設に努めること」である。言い換えれば、「いつ、どこで、どのようにこの世は神の場になりかかっていることに気づくようにしよう。そして、この世は神の場になりきるようにしよう。福音書を読むとわかるように、神の国の当来に気づくことと神の国を(築く)つくりあげていくようにするというのはイエス様が引き起こした運動の根本である。それこそ運動としての教会の発端である。

神の国に関する誤解

ところが、神の支配、天の王国に関する誤解がある。キリスト教の諸教会においてこのことについての誤解が生じている。そのため信仰者の共同体は二手に分かれてしまうことが遺憾ながらある。いわゆる「社会派」と「信心派」と言うレッテルをたがいに貼ってしまうことがある。

しかし、本来ならばそのように分かれてしまうはずはない。平和を育てようというときには、心の中の平和、対人関係における平和、社会関係における平和、国際平和、自然との平和などは互いにむすばれており、無関係のものではないのである。

山上の説教の中で「平和を作る人は幸いである」とも言うし、「正義のために迫害される人は幸いである」とも言う。

福音における正義と平和の捕らえ方を正しく理解するためにマタイ23,23参考になる:「誠、いつくしみ(ゆるしあい)、正義」と言う三つの重要なことは唯一の教えとして結ばれている。

このような福音の読み方にもとづいた信仰の持ち方がそだったら、決して教会内部における社会派と信心派の対立がないであろう。だから福音にもとづいた信仰の持ち方と社会への係わり方を育てたいものである。

福音書の読み方と福音の実践

福音書の読み方と福音の実践のあいだに相互関係がある。ともに祈り、ともに生きる信仰者の共同体は社会生活の経験に照らして聖書を読み、聖書からの光に照らして社会生活の経験をみなおす。

第二バチカン公会議が宣言した『現代世界憲章』(46項)では人類の現代の緊急な課題ととりくむための方法論として「福音と人間の得た経験の光のもとに」それを捉えることが勧められている。それは、言い帰れば、福音に照らして社会をみなおし、社会での生活経験に照らして福音書をみなおすという考え方と実践の方法である。(この方法から1970年代んイおいて「解放緒神学」と呼ばれるキリスト教の社会観と社会実践が生まれたのである」)。

福音書の社会的な次元に目を向けるような読み方をすれば、社会問題との取り組み方が変わってくるであろう。そのために「どこで」、「だれと一緒に」福音書を読むのかということが肝心である。

使途信条の三つの部分

使途信条の三つの部分は、イ)父なる神、ロ)イエス・キリスト、ハ)聖霊、である

信仰告白

キリスト教の信仰を表す「使徒信条」という文には昔から聖書にもと基づいて信仰告白が次のようにまとめられた。

カトリック教会のミサ(信仰者の集いである「感謝の祭儀」)の中では次のように「信仰宣言」が唱えられる。

天地の創造主、

全能の神である父を信じます。

父のひとり子、乙女マリアから生まれ、

苦しみを受けて葬られ、

死者のうちから復活して、

父の右におられる主イエス・キリストを信じます。

聖霊を信じ、

聖なる普遍の教会、

聖徒の交わり、

罪のゆるし

からだの復活、

永遠のいのちを信じます。

今ここでこの信仰宣言の真髄を手みじかに把握するためにその三つの部分すなわちイ)父なる神、ロ)イエス・キリスト、ハ)聖霊について一言ずつ述べ対のですが、その前にこの信仰告白の言葉の短い説明を挙げておきましょう。

天地の創造主。すべてのものの根拠であり、全てを創造し、支え、導く。

全能の神である父を信じます。すべての力を超える力、命いのちの源、父や母と呼ばれる愛の源。

父のひとり子

イエスと父なる神に絆というよりも「一致」を表す言葉。

乙女マリアから生まれた神でありながら真の人間となったキリストは「女から生まれた」。

苦しみを受けた。無実でありながら処刑された、愛に徹したあかし証。

葬られ。本当に死んだ。イエスの死は芝居ではなかった。

死者のうちから復活した。もう二度と死ぬ事がない永延永遠のいのちに入った。

父の右におられる。永延永遠の命いのちに入ったイエスは悪と死にうち勝ったことを表す言い方。

主イエス・キリスト。主は神。イエス・キリストは、イエスはキリストであるということの省略。

信じます。信頼して委ねます。

聖霊。父なる神の息吹、キリストの息吹。

聖なる普遍の教会。聖人でないにもかかわらず、我々は神によって聖とされます。普遍を目指して、全人類の一致の徴になろうとし、その一致の建設に役立てようとする教会。

聖徒の交わり。聖なるもの者の集まり、キリストの祭壇を囲んで集う教会、キリストの霊(息吹)によって集められた共同体

罪のゆるし。神から離れた状態としての野罪に対する神との絆の回復

からだの復活。復活したキリストの体との完全な一致

永遠のいのちを信じる。死後の世界を描写しない。それよりもしんで死んでも神から見捨てられることがあり得ないという信仰。

信じること

宗教」のことを「神聖なものに関する信仰」、信仰は「神・仏など、ある神聖なものを信じ尊ぶこと」と説明される(国語辞典)。ときには、「宗教」は「既成宗教」を指し、 「信仰」は宗教的な心のあり方を指して用いられる。

教科書では次のように使い分ける。宗教性または宗教心(宗教的な態度や信仰の持ち方)、宗教(制度や団体としての宗教)、宗教学(宗教についての学問)。

要注意:「宗教性」なしの「宗教学」は理屈っぽいものになり、抽象的な思想になりかねないのですが、「学」なしの「宗教心」は「迷信」や「熱狂心」になってしまうことにもなりかねない。

神を信じることは、神が存在することを認めるだけのことではない。信じることと知ることとは違う。信仰では、認識よりも信頼の面が大事である。信仰には当然なこととして、疑いが伴う。

信仰には必ず、「飛躍」みたいな面がある。信じるとは、神自身によって信じさせられることであり、信じたい心を引き起こすことでもあると言えよう。信じるとは恵みや賜であると同時に決断でもある。

「私は信じるが、信仰が足りない私をお助けください」(マルコ9,24)という言葉は、信仰者らしい祈りである。

信じるとは、ある特定の内容を頭で認めることよりも、生き方である。神を信じると信じないとでは、日々の生活や人間関係や直面する出来事などの意味が変わってくる。(そうかと言って自分が立派になったのではない)。

「信じる」とは、キリストによって自分の生き甲斐を見いだすことであり、自分の生活に意味を、人生に目的を、宇宙の歴史に方向付けを与えるものを見いだすことである。

信仰への道を歩みながらまだ信仰者になっていない者にも本人が気づいている以上の信仰があるかもしれないし、信仰者のつもりでいる者にも、信仰の火が消えてしまったり、明滅したりしていることもあろう。

神は人を通して私たちを招く。この招きのほかに、心に聞こえる神の声という内的な招きもある。この招きに応えて私たちは、「己をゆだねる心」をもって答えるとき信仰の道に入るのである。

全能―天地の創造主、全能の神である父―

「全能」という言葉について二つの幼稚な捉え方がある。イ)神は何でもお出来になるのだから、どんな罰があたるか分からないという受け止め方、ロ)神は何でもお出来になるのだから、何でも与えてくださるだろうという受け止め方。

全能:私たちの弱さを強め、私たちの力を力づける方。

創造主に関しても誤解がある。ただ単に、昔、神は世を創られたとだけ理解するのでは不十分である。全能の創造主への信仰は、次の二つの要素を含む。それは、過去において私たちを創り、現在において私たちを支え、未来に向かって私たちを導いてくださる方が、すべてのものの根源であり、私たちはいつもその方の内に生きており、その方によって生かされているという信仰である。

そうした神こそ、イエスが教えてくださった「天の父」と呼ばれる方である。 イエスが教えてくださった天の父が、わたしたちが神について抱いているちっぽけなイメージをはるかに越える方である。

全能の神である父を信じる

すべての力を超える力、命の源、父や母と呼ばれる愛の源。神ということばはもともと民間宗教の言葉である。

全能ということば抽象的すぎる。

父ということばはイエスが使った言葉であり、父なる・母なる神にむかって用いられると、神は近づきやすい方として感じられる。

神についての話し方―神についての三つイメージ。イ)理屈(難しいことば、抽象的な説明)。ロ)神話  (具体的なイメージ、民間宗教の神々。ハ)イエスの信仰、イエスの祈り方、イエスの話し方、

イエスの教えた「父なる神」・「母なる神」、「アッバ」

全能の父なる神という表現   「全能」 「父」 「神」

英語で; God, the Father, Almighty

ラテン語で: Deus Pater Omnipotens

イエスが教えた神に出会う場:    イ)心の中の場 マタイ 6,5-6、ロ)一緒に祈る場 マタイ 18,20、ハ)実践の場 マタイ 25、31-40

イエスが引き起こした運動:「神の国」への運動

この世は「神の場」になりかかっている  (「神の国」に気づくように)

この世は「神の場」になりきれない (「神の国」を造るように)

イエス・キリストを信じます

他の宗教にも見られる現象ですが、キリスト教も例外ではなく、やはり時代と共に発展するにつれて付随的なものがつけ加えられてきます。そして、必然的に理屈も儀式も規律も、いつのまにか、増えてしまい、創立のころの簡単な信仰の持ち方が複雑になってしまう。

ヨハネは「イエスにおいて真実のいのちが現れた」と言います(新約聖書ヨハネの第一の手紙、1,5参照)。このヨハネの手紙の冒頭にキリスト教の要約が見事に簡潔な形で表されている。イエスが伝えた「福音」、「良い知らせ」とは、一言で言えば、「いのちの源である方から人間は子供として愛されているので、人間には希望と生き甲斐が与えられており、兄弟姉妹の世界を作っていくように励まされている」ということに尽きるのである。

「真実のいのち」についてヨハネの手紙では次のように書いてある。

「はじめからあったもの、私たちが聞いたもの、私たちの手で触ったもの、私たちの目で見たもの、すなわち、命のことばについて・・・そのいのちが現れた。そして、父のもとにあったが私たちに現れたその永遠のいのちを私たちは見て、あなたがたに証しし、告げるものである・・・私たちが見たもの、聞いたものをあなたがたにも告げ知らせる。それはあなたがたも私たちとの交わりに与るようになるためである。私たちの交わりとは父とその御子イエス・キリストとの交わりである。そして私たちがこれらのことを書くのは、私たちの喜びが満ち溢れるようになるためである。私たちは彼から聞いており、あなたがたに告げ知らせるのは、神は光であって、彼の中にはいかなる闇も存在しないということである・・・(1ヨハネ1,1-4) 。この数行は『キリスト教入門』という題をもった多くの書物よりも、信仰の真髄を明らかにしてくれるのです。教えの中心は真のいのちです。「いのちの源」のことは「父なる神」と言われています。 その奥義はイエスにおいて現れました。イエスはその表現であり、「いのちのことば」と呼ばれている。

この手紙の差出人は複数の形(私たち」)で話しています。宛先人も複数です(あなたがた)。

交わり(ギリシャ語でコイノニア)という語彙も大事です。永遠のいのちの源なる「天の父から」、永遠のいのちの現れである御子を通して、私たちに永遠のいのちが与えられ、私たちを一つに結びます。

キリスト教のこの信仰を短く表すのは十字架のしるしを示しながらキリスト者たちの唱える「父と子と聖霊のみ名によって、アーメン」という祈りの言葉である。

イエスキリストである。

ナザレ生まれのイエスキリストと呼ばれています。

キリストとは、神から「遣わされた」者、「選ばれた」者、「油を注がれた」者、またはメシアすなわち救い主であり、私たちに救い(希望)をもたらす方だと信じている人にとってその名称は「主イエス・キリスト」である。言い換えれば、イエス(真の人)は主(真の神と同一のもの)であり、私たちに救い(希望、生き甲斐、ゆるし、永遠のいのちなど)をもたらすキリスト(遣わされた者、来たるべき者)だということである。

イエス・キリストとのめぐり合い

弟子たちの場合:1.生前のイエスに接しました。2.その教えから学びました。3.イエスの死後は「イエスキリストである」と言えるようになった。

私たちの場合:1.イエスの教えについて学びます(たとえば、本など)2.イエス・キリストを信じる人を通して学びます。3.内部から自分自身で「イエスキリストである」と言えるようになります。

「主は聖霊によって人となり、乙女マリアから生まれた」

マタイ福音書とルカ福音書におけるイエスの誕生物語は史的事実でもなければ、子供向けのおとぎばなしでもありません。それは信仰の立場からの創作です。その物語を通してイエスとは誰であるのか、そして神はどのように現れ、どこに見出されるのかということが伝えられる。

この話しを奇麗ごとにしてしまうと、マリアの妊娠は奇跡的な出来事であるかのように扱われ、イエスの誕生は例外的なことのように描かれてしまう。しかし、イエスの誕生は例外的であったというよりも、むしろすべての誕生において起こる不思議な謎はイエスの誕生に照らして解き明かされると言ったほうが適切な読み方のように思われる。というのは、どの子でも親から生まれると同時に、聖なる息吹によって生まれると言えるからである。

マタイ福音書に現れているように、ヨセフイエスの遺伝の親ではありませんが、マリアの結婚についての歴史的事実まで私たちが遡ることができません。さまざまな伝承が伝えられております。ある伝承によるとマリアは性的虐待の被害者だったのではないかと言われていますが、それは確かめられない。しかし、そうだったとしても、イエスにおいて神が決定的に現れ、イエスこそ我々の間に現れた神ご自身であるという信仰を否定することにはならない。かえって、どこに神が現れるのかということをますますはっきりと伝えられるようになるのである。

マリアの妊娠がわかって戸惑っていたヨセフにはみ使いが現れるという場面をマタイが描いたのですが、そのときのみ使いの言葉を次のように置き換えることができよう。「ヨセフよ、心配するな、この妊娠は神の息吹によって見守られています。つまり、どんな事情によって身ごもったにしても神の息吹によってその誕生が見守られています」。

イエス・キリスト

「イエス・キリスト」という名は、「イエスはキリストである」という私たちの信仰を一言で現したものである。その文章の主語はイエスであり、述語はキリストである。この述語をさまざまな表現で置き換えることがある。たとえば、「救い主である」、「神の子である」、さらに「私たちの希望である」というようにである。

イエスが教えてくださった根本的なことは、天に父/母なる神がおられるから、人間には希望があるということです。十字架につけられて死なれたそのイエスが、永遠の命いのちに入り、今なお生きておられるということが、その希望の根拠である。

キリスト教の信仰の内容を要約すると、「イエスは私たちの希望の根拠である」となる。ここで重要なのは、具体的な歴史上のイエスの姿です。ここにキリスト教の大きな特徴がある。

キリスト者は神を、自分の心や大自然の中に見いだすだけではなく、歴史の中で具体的な姿をとった者として見いだすのである。

新約聖書の中では、この信仰はいろいろな形で表されている。まずキリスト者の初期共同体は、使徒たちの次の教えを保ち続ける(使徒言行録2,42)。ナザレのイエスは救い主であり、十字架に付けられた後よみがえって生きておられる(同上、4,10)。

パウロは会堂でイエスが神の子であることを説教していた(同上9,20)と書いてある。1コリント15章には、キリストの死と復活を中心にした、もっとも古い信仰告白があります。信仰に入る人に求められる信仰告白は、イエスが主であり、神によって死からよみがえったということである(ローマ書10,9)。

この信仰告白は信仰者の一致の根拠である。「主は一人、信仰は一つ、神は唯一唯です」(エペソ書4,5-6)。典礼の中で使われる「アーメン」といいう言葉は「然り」という意味であって、次の二つのことを意味する。一つは神が私たちに向かってキリストを通して「アーメン」と仰せられたということであり、もう一つは私たちがキリストを通して「アーメン」と神に向かって言うということである(2コリント10,20)。

先に引用した箇所の他に多く引き合いに出すことができますが、短い重要な信仰告白として、少なくとも次の三つをよく参考にしておきたいと思う。

「われわれには唯一の父なる神がいるのみ、その方から万物は出で、われらはその方へと向かう。そして唯一の主イエス・キリストがいるのみ。その方によって万物は成り、われらもその方による」(1コリント8,6)

「あなたがあなたの口で主イエスを告白し、あなたの心のうちで、神はイエスを死者の中から起こした、と信じるなら、あなたは救われる」(ローマ書10,9)

「一人の主、一つの信仰、一つの洗礼、唯一の神にしてすべてのものの父であり、すべてのものの上に、すべてのものを貫いて、そしてすべてのものの内にいる方・・・」(エペソ書4,4-6)

十字架に付けられたキリストを信じる

十字架は罰ではない

9月14日に典礼の暦では「十字架の称賛」または「十字架の勝利」となっている。勝利とは「負けるが勝ち」ということであるが、イエスの死は世間的にみたら敗北であるが、イエスを復活させる神様からみたら勝利であり、愛の勝利である。

苦しみを受けた。無実でありながら処刑された、愛に徹したあかし証。

葬られた。本当に死んだ。イエスの死は芝居ではなかった。¥

ところで、当時の宗教と政治の指導者たちによって死刑に定められたイエスの死の意味について誤解が(カトリック信者のあいだでも)少なくないので、その意味を取り違えないようにしたい。

たとえば、「キリストの十字架の死によって私たちは購われた」というとき、「あがない」ということばは、「つぐない」とか「罰」とか「払い戻し」とか「買戻し」というイメージを思い起こすことがある。戦争終結後、捕虜を賠償金と引き替えに返還する(買い戻す)ということもその一例である。しかし、聖書では「あがない」という言葉の背景にあるのは、「解き放つ」という意味である。あがないは、買い戻しの支払いではなく、解き放つことであり、罪を滅ぼし、人を神と和解させることである。

ギリシア・ローマ文化の影響を受けた者の中には、あがないを「買い戻し」という狭い意味に解釈する者も多かった。中には「キリストは自分の血で支払って、悪魔からわれわれを買い戻した」などと、冒とくとも言える意見を述べる偏った説教さえ現われてきた。こんな考えはキリスト教に反するばかりでなく、あやまちである。

また、「キリストの血が神の怒りをなだめた」と説明する人もいた。この言い方も適切とは一言いがたく、誤解を招く。

「つぐない」という言葉も、誤解のもとであり、罰と結びついてしまう。今目でも、刑務所の苦痛や臨終の苦悶によって罪がつぐなわれるといわれる場合があるが、それは、苦痛や苦悩こそつぐないにとってもっとも重要だ、と考えられてしまうからであろう。その根底にあるのは、「報復を要求する正義」の考えであり、こうした正義の発する怒りをなだめなければならない、とする見解である。

このような考え方は、時にはキリスト教的と言われたりするのであるが、実は、キリスト教のつぐない観念とはほど遠いものである。しかし残念ながら、中世的な慣習やものの考え方、特に北欧の考え方は、説教者や著述家に好ましくない影響を与えた。そして、「キリストの受難は神の怒りをなだめる罰である」とか、「苦痛や死は罰である」とか、さらに、「神は罪人に無限のつぐないを要求しているが、それを支払えるのはキリストの血のみである」といったまったく誤った考えが強調されるようになったのである。

(今でもある特定の霊性や運動によってこの考え方が教会内でも伝えられることがあるが...)。

もっと思い切った説明をしよう。「十字架こそ救い」というひとことは誤解の元だと言わなければならない。イエスは私たちの救い主であると言われているのは十字架で「死んだから」ではなく、十字架で「死んだにもかかわらず」である。十字架に死んだにもかかわらず、今尚生きているから私たちの希望の根拠だと言えるのである。

キリストの十字架は何よりも和解とゆるしあいのしるしである。キリスト者たちは死刑制度に反対するとき、この和解の精神を促進しようとしている。

この間、日本でまた残念ながら死刑が執行された。その時、法務大臣の失言があった。「日本には死ぬことによって償う伝統があるから死刑を執行します」という暴言だった。私たちは「死んで償う」のではなく、「生きている者の和解によって互いに生かし合う」ことを求めたい。

黄泉の国

初めて教会を訪ねた方は聖書の言葉を聞いてわからないので、教えていただきたいと言っていた。なかでも、信仰宣言として私たちが唱えている使徒信条の言葉にひっかかっていた。十字架に付けられたイエスは「死に、葬られ、「黄泉」にくだり」と言うが...「黄泉にくだった」というのは日本の神話に出てくるイザナギとイザナミのような話しでしょうか。この質問をしていた方は文学に詳しくてギリシャ神話をご存知だったらしい。妻を連れもどしに死者の国に下るオルフェウスの話しとか、地下のいずみから流れる黄色の川などの話し...

でも、使徒信条で私たちが唱える言葉はその神話とは違う。黄泉に下ったというのは昔の詩人たちの言葉を使った聖書の表現である。

使徒行録2、24にペトロは次のように言っている。「神はよみの苦しみを解放して、イエスをよみがえらせた」。この言葉使いをしているペトロは象徴的な表現、大衆に通じるような表現を用いている。特に聖書の言葉を聞くのに慣れている人だったら預言者ホセアの言葉を思い出したであろう。ホセアは次のように神様に言わせている。「黄泉の地からあなたがたを解放し、死の国からあなたがたを救う」と言っている。

日本人だったら昔の詩人、万葉集とか俳句などになれているから、みな知っているような詩人の言葉を引用すれば話がピンとくる。この前、三人の友だちと六甲山に車で行った。その二人は日本人で、もう一人は日本語を覚え始めている外国人だった。車から降りると、お月様は綺麗に見えた。ちょっと冷えるからコートを着たほうがよいと言われたが、そのとき日本人の一人は「山寒し」と言い出した。「山寒し」という言葉を聞いたもう一人の日本人は次ぎのように言い続けました。「心のそこや、水の月」。なるほど、「山寒し、心のそこや水の月」。その二人は俳句になじみがある。ところが、それをはじめて聞く外国人はとまどって、「どうしてこころの中に水があるのか」「それはお月様とどんな関係があるのか」と聞くのだが、説明にこまる。

まあ、聖書の場合も似たようなことが起こる。字図らどおりに読んでもピンとこないことがたくさんある。先ほど引用した預言者ホセアの言葉はその一例である。他のところではこう言う。「死の国よ、あなたのたたりはどこにあるのか。黄泉の国よ、あなたの滅びはどこにあるのか」とある。(13,14)。またある詩篇の中にも次のように言われている。「神よ、あなたは、私の魂を黄泉に捨てておくことはなさらず、いのちの道を示してくださる」と唱っているが(14,10)。その詩篇を引用してペトロは死に打ち勝ったイエスの勝利を伝えていた。

今の教皇ベネヂクト16世は50年前に若い神学者だったころ使徒信条を説明する本を書かれた。それは日本語にも訳されており、「キリスト教入門」という本であるが、その中で「黄泉に下った」という使徒信条の言葉を次のように解釈している。その表現で表しているのはイエス様が本当に死んだ、芝居ではなく、本当に死んだということと、死んだイエスは二度と死ぬことがない永遠の命に入り、今尚生きているという信仰である。

このことは、比喩的に、象徴的な表現をとおして述べられている。

皆さんの中で何十年も前に洗礼を受けられた方は「古聖所」(ふるい、聖なる、ところ)と言っていたのを覚えがあるであろう。

教皇ベネヂクトが言っているように昔の中世時代のような説明のしかたにこだわる必要がない。そして前世紀の半ばごろまで用いられていた教えの本の説明にこだわらなくてもよい。そういった本などではこう説明されていた。つまり、昔から死んだ聖人たちはまだ天国に入らないで救い主を待っていると。そう考えられていた。彼らは待合室みたいなところにいたと思われ、それはアブラハムの懐と呼ばれていた。そこで、ご自分にせんじてなくなった正しい人々を解放するためにイエスは黄泉の国に下って解放しに行かれたと言われていた。

しかしこれは一つの象徴的な表現で、大切なポイントは結局イエス様の救いの業はすべてのところ、すべての人、すべての時代に及ぶものであり、私たちを大切にしてくださっている神様は私たちを忘れることがありえないので、私たちは死んでも永遠に生きるという信仰である。

そういった信仰を語るとき日本に伝わっているキリスト教の表現や説明の仕方には、ヨーロッパの中世時代や19世紀末の教え方に強く影響されているものがあり、このような一時期の神学や教え方にこだわらないようにするとよい。そういったこだわりをなくすと、もっとのびのびとキリスト教を受け入れることが出きるであろう。

私たちはそのように人に伝えることができるように大人としての信仰の持ち方に成長し、教えの真髄をよく理解するように願いたい。

イエスの復活とは、ラザロ物語の「いきかえり」とは違う。

まず、「三日目によみがえった」という表現にこだわらないようにしよう。三日間が経ったのではなく、「決定的に永遠の命に入った」という意味である(ホセア6,2参照)。そして「復活した」という言葉も「この世のいのちに生き返った」というふうに受け止めないように注意しよう。(民間宗教のレベルではこの世の命に生き返ることと間違えられがちである)。

イエスが復活されたというのは、幽霊の話しでもなく、この地上のいのちに生き返ることでもない。復活は死に対する命の勝利であり、もはや死ぬことがなく、神様のうちに永遠に生きることであって、復活した方こそ「生きている方」(黙示録1,18)である。十字架に付けられたイエスは今なお生きておられることを証してキリスト者たちは日曜日ごとに集まる。

復活するとは「墓から死体が蘇る」とかいう表現で適切には表わせない。ラザロ物語(Jn 11章)のような蘇りでもないし、蘇生術によって死体に生き返らせることでもないのである。

イエスは今尚生きているということは科学的に証明されるようなことでもなければ、歴史研究によって立証されることでもない。その信仰を実践している共同体(キリストの体とキリストが引き起こした運動の延長である共同体)が復活の証である。殉教者たちは復活の典型的な証人である。

ヨハネ福音書では象徴的に言う。「門が締め切ってあったのに、イエスは彼らの間に現れた」(Jn20、19)。しかし壁を通して魔法的に入ったのではない。いつも常に彼らの間におられたが、彼らはまだ気づいていなかったのである。出現のときにデジタルカメラを持つものがいたとし、写真を撮ったとしてもその写真には復活者が出てこなかったであろう。なぜかと言えば、信仰の目(Eph 1,18)でしか見えないからである。

Lc 24,36:「彼らの真ん中に立ち」  (ギリシャ語で:este en méso autón)。

Jn 20,19:「イエスが真中に立っていた」(ギリシャ語で:éste eis to méson”)。

復活者は「外から」とか「上から」というふうに来られるのではなく、すでに中心におられるのである。いや、来られたというよりも現れた(epiphany)と言ったほうが適切である。復活という言葉との関連では、ラチンガー教授が40年前に言っていたように、「肉体の蘇り」という言い方も見直すべきである。それは、死んだ肉体が魂を取り戻すようなことではなく、体から離れた魂の存続でもなければ、生前の体を取り戻すことでもない。むしろ死を通して変容され、聖霊の息吹によって永遠に神のうちに生きるようにさせられるということである。

まず、「三日目によみがえった」という表現にこだわらないように。三日間が経ったのではなく、「決定的に永遠の命に入った」という意味です(ホセア6,2)。

そして「復活した」という言葉も「この世のいのちに生き返った」というふうに受け止めないように注意しましょう」。(民間宗教のレベルではこの世の命に生き返ることと間違えられますが…)。

十字架に付けられたイエスは今なお生きておられることを証してキリスト者たちは日曜日ごとに集まります。イエスが復活されたというのは、幽霊の話しでもなく、この地上のいのちに生き返ることでもありません。

復活は死に対する命の勝利であり、もはや死ぬことがなく、神様のうちに永遠に生きることであって、復活した方こそ「生きている方」(黙示録1,18)です。

復活するとは「墓から死体が蘇る」とかいう表現で適切には表わせませんし、ラザロ物語(Jn 11章)のような蘇りでもないし、蘇生術によって死体に生き返らせることでもないのです。

イエスは今尚生きているということは科学的に証明されるようなことでもなければ、歴史研究によって立証されることでもありません。その信仰を実践している共同体(キリストの体とキリストが引き起こした運動の延長である共同体)が復活の証です。殉教者たちは復活の典型的な証人です。

ヨハネ福音書では象徴的にいます。「門が締め切っていたのにイエスは彼らの間に現れた」(Jn20、19)。しかし壁を通して魔法的に入ったのではありません。いつも常に彼らの間にいたが、彼らはまだ気づいていなかったのです。出現のときにデジタルカメラを持つものがいたとし、写真を撮ったとしてもその写真には復活者が出てこなかったでしょう。なぜかと言えば、信仰の目(Eph 1,18)でしか見えないからです。

Lc 24,36:「彼らの真ん中に立ち」 (ギリシャ語で:este en méso autón)

Jn 20,19:「イエスが真中に立っていた」(ギリシャ語で:éste eis to méson”)。

外からとか上から来られるのではあえりません。すでに中心におられるのです。いや、来られたというよりも現れた(epiphany)といったほうがよいです。

復活という言葉はラチンガー教授が40年前に言っていたように、「肉体の蘇り」という言い方を見直すべきです。死んだ肉体が魂を取り戻すようなことではなく、体から離れた魂の存続でもなければ、生前の体を取り戻すことでもありません。むしろ死を通して変容され、聖霊の息吹によって永遠に神のうちに生きるようにさせられることです。

天に昇って

「天に昇った」という象徴的な表現によってイエスは今尚生きておられることが表わされています。「天に昇った」というのは雲の上にいると言う意味ではありません。死んで永遠の命に入ったイエスが肉眼で見えないが、常に私たちと共おられます。そして私たちをつかわし、私たちの手と足を通してはたらきます。

この教えを聖書はいろいろな表現であらわします。たとえば、ご商店を表す次の五つの五つの表現を検討しゅいましょう。

1)「上にあげられた」(ルカ24,51)、「上にいる」というのは「死にうちかった」という意味です。 2) 「父なる紙の右の座についた」(使徒2,33)、「右の座にいる」というのは「裁く権能を与えられた」と言ういみです。3)「あなたがたより先にガリラヤに行く」(マルコ16,7)、「先にいる」,「先に歩いている」というのは日常生活の現場にいると言う意味です。 4)「世の終わりまであなた方と共にいる」(マタイ28,20)、「常に共にいる」、「傍にいる」というのは共同体の中にいるという意味です。5) 「すべてを満たしておられる」(エペソ教会への手紙4,9-10)というのは私たちのうちにおいてもすべてのものにおいても現存しているということです。

聖霊(神の息吹)

「父と子と聖霊」と言われますが、私たちはむしろその逆の順序で神に至ります。すなわち、聖霊によってキリストを通して父なる神へと至るのです。使徒たちにとってもそうでした。ヨハネ16,12-15のイエスの言葉に、「聖霊は弟子たちに、イエスが誰であるかを示し、天の父のことを現してくださるであろう」とあります。

わたしたちの場合には、共同体の現実の中でも、個人の心の中でも、聖霊はイエスと父を現してくださいます。大自然を通して、共同体と歴史を通して、そして私たちの心の中に聞こえる神の声を通して、聖霊は父なる神を私たちに現してくださるのです。

信仰告白の中でわたしたちが言う「信じます」という言葉は、聖霊によって言えるものです。「聖霊を信じ、教会を信じ、罪の赦しと、体の復活と永遠の命を信じる」という表現がありますが、これは正確には、聖霊を信じ、教会という場において神を信じ、そして罪のゆるしと永遠の命に向かって信じるということです。

罪のゆるしを理解する出発点も聖霊です。聖霊は新しい心を私たちのうちに創造するからです。そして体の復活を信じるとは、父なる神が私たちに対して、イエスになさったのと同じようになさってくださるであろうと信じることです。私たち一人一人の生涯、人類の歴史、また宇宙全体も、父なる神によって新しくされるだろうと信じることです。

ローマ書8,11を思い出しましょう。体の復活と創造主である聖霊自身による人間の再創造についての箇所です。それは単なる肉体のよみがえり以上のものです。それが1コリント15,44で、難解ですが深い表現でのべられて述べられているます。

神様の「気」(プネウマ)、聖なる「命の息吹」を信じる

使徒信条の第三部は「聖霊を信じる」と言うが、「聖霊」という言葉は誤解されやすい。わたしたちは「父と子と聖霊のみ名によって」と祈るが、この「と」(英語でand)は、神様は三者であるかのように誤解されやすい。本講座の最初から強調したように、「父」とは、いのちの源である神のこと、「子」とは、わたしたちの間に現れ、神の顔を示してくださったイエスキリストのこと、聖霊はいのちの源である神の息吹、イエス自身の息吹、私たちのうちに宿り、すべてのものを生かす神の息吹のことである。

使徒信条の第三部の要点を思い出そう。「聖霊を信じ、 聖なる普遍の教会、 聖徒の交わり、 罪のゆるし 、からだの復活、 永遠のいのちを信じる」と。

聖霊。父親とも母親とも呼ばれうる神の息吹、イエスキリスト自身の息吹。

教会。「教会を信じる」のでもなければ、「教会が言っていることを信じる」と言うのでもない。「教会の中にいて」、「教会の中に身をおいて」(ラテン語でin Ecclesia)神を信じるという意味である。

聖なる教会。聖と呼ばれるのは聖なる神の息吹によって生かされ、集められている人々の集いだからである。聖人でないわたしたちは神によって聖とされる。

普遍。普遍とは「カトリック」の意味である。すべての分け隔てや差別や違いを超えて、人類の一致を目指し、その一致の徴になるのは教会の使命である。

教会は「聖徒の交わり」や「聖霊の交わり」や「諸信徒の和合」と呼ばれるのは「聖なる神の息吹によって一つにされている人々のつどい」であり、その繋がりこそ教会を作るものだからである。神によって「尊いものとされた供え物を奉げ、キリストの祭壇を囲んで集う教会は、キリストの霊(息吹)によって集められた共同体である。ただ、聖霊の働きは決して教会内だけではない。教会の中で私たちが祝うのはすでに教会の外で起こっている出来事すなわち聖霊の働きを祝うためである。

罪のゆるし。神との繋がりが断ち切られてしまっても、神に立ち返る道と機会をいつも与えられている。そして神から受け入れられ、ゆるしていただいている者は互いにゆるしあいたい。

「からだの復活、永遠の命を信じる」。「からだの復活」や「肉親の蘇り」も誤解されないように注意したい。復活とはこの世の生活に再び帰るような「墓からの蘇り」ではなく、二度と死ぬことがない真の命すなわち永遠の命に入ることであり、神様の命のうちに永遠に生きることである。キリスト教では死後の世界を描写しない。わたしたちは、死んでも神から見捨てられることがあり得ないという信仰をもってその死後の変容や在り方を神様にゆだねる。」?

「父と子と聖霊」と祈るが、私たちはむしろその逆の順序で神に至る。すなわち、聖霊によってキリストを通して父なる神へと導かれる。使徒たちにとってもそうであった。ヨハネ16、12-15のイエスの言葉に、「聖霊は弟子たちに、イエスが誰であるかを示し、天の父のことを現してくださるであろう」とある。

共同体の現実の中でも、個人の心の中でも、聖霊イエスと父を現してくださる。大自然を通して、共同体と歴史を通して、そして私たちの心の中に聞こえる神の声を通して、聖霊は父なる神を私たちに現してくださるのである。

信仰告白の中でわたしたちが言う「信じる」という言葉は、聖霊によって言えるものである。「聖霊を信じ、教会の中で身をおいて神を信じ、罪の赦しと、からだの復活と永遠の命を信じる」という表現があるが、これは正確には、聖霊を信じ、教会という場において神を信じ、そして罪のゆるしと永遠の命に向かって信じるということである。

罪のゆるしを理解する出発点も聖霊である。聖霊は新しい心を私たちのうちに創造するからである。そしてからだの復活を信じるとは、父なる神が私たちに対して、イエスになさったのと同じようになさってくださるであろうと信じることである。私たち一人一人の生涯、人類の歴史、また宇宙全体も、父なる神によって新しくされるだろうと信じることである。

これに関してヨハネの中での最も大切な言葉を引用しておこう。

「私は父のうちにおり、あなたたちが私の内にいて、私もまた、あなたたちの内にいるのだ」(ヨハネ14、20)。

「父よ、あなたが私の内に、わたしがあなたの内にいるように、彼らも私たちの内におられるようにしてください」(ヨハネ17、21)。